劉備が益州を拠点とした際、実戦に投入可能な兵力は、精々六〜七万に過ぎなかった。この兵力、果たして「多い」と言えるだろうか?袁紹は官渡の戦いに際し、兵を精鋭に絞っても尚、十万余を動員した(『後漢書・袁紹伝』:「紹悉衆拒操、兵十餘萬」)。孫権が合肥に親征する際には、十万の大軍を率いるのは日常茶飯事であった(『三国志・呉主伝』:「權率十萬衆圍合肥」)。...
甘寧が斬った「名将」はたった一人——しかも「誰かの親父」。しかもその「首」はただの校尉。息子が騒ぎ立ててなければ、歴史にすら残らなかったかも。その「誰か」とは——張遼である。では、張遼が斬った「名将」リストを見てみよう:① 蹋頓(烏桓の単于・超ハイクオリティ人頭)《三国志・張遼伝》より:「従征袁尚於柳城、卒与虜遇、遼勧太祖戦...
この時期の史書記録は、確かに断片的で散漫である。しかし、諸史料を丹念に綴り合わせれば、以下のような時間軸が浮かび上がる。関東諸侯が「董卓討伐連合軍」を結成。その声勢は轟々たるもので、「清君側」の旗印を掲げ、天下に響き渡った。しかし、董太師(董卓)はこの直前、娘婿・牛輔が白波賊との戦いで大敗を喫していた。...
何進が独裁的な権力を握るのは見苦しい。そこで袁隗を「飾り」として据えたのである。前者(何進)は宮中の政変に斃れ、後者(袁隗)は東漢王朝における名目上の首輔(しゅく)——すなわち「太傅・録尚書事」の地位にあった。彼は何を為すべきだったのか?「按部就班、徐々に権力を回収すればよいだけではないか」...