劉備の最強時期はいつ?劉備政権に天下統一の可能性はあった?
劉備が益州を拠点とした際、実戦に投入可能な兵力は、精々六〜七万に過ぎなかった。この兵力、果たして「多い」と言えるだろうか?袁紹は官渡の戦いに際し、兵を精鋭に絞っても尚、十万余を動員した(『後漢書・袁紹伝』:「紹悉衆拒操、兵十餘萬」)。孫権が合肥に親征する際には、十万の大軍を率いるのは日常茶飯事であった(『三国志・呉主伝』:「權率十萬衆圍合肥」)。
劉備が益州を拠点とした際、実戦に投入可能な兵力は、精々六〜七万に過ぎなかった。
この兵力、果たして「多い」と言えるだろうか?
袁紹は官渡の戦いに際し、兵を精鋭に絞っても尚、十万余を動員した(『後漢書・袁紹伝』:「紹悉衆拒操、兵十餘萬」)。
孫権が合肥に親征する際には、十万の大軍を率いるのは日常茶飯事であった(『三国志・呉主伝』:「權率十萬衆圍合肥」)。
曹操に至っては、北方全域を統一した後、夏侯淵に五万の兵を与えるなど、まるで遊びの如き余裕であった(『三国志・武帝紀』:「以淵督諸軍屯長安、給兵五萬、騎五千」)。
では、夏侯淵の五万兵は、劉備を阻むことができただろうか?
さらに羌・氐諸族の援軍を加えたとしても、劉備を止められたか?
曹洪、曹真、曹休らの援軍が続々と駆けつけたとしても、劉備の進撃を食い止められたか?
結果は歴然である。張郃は崩れ、夏侯淵は討たれ(『三国志・夏侯淵伝』:「為備所襲、遂斬淵」)、曹操自ら大軍を率いて漢中に赴いたが(『資治通鑑・卷六十八』:「操自長安出斜谷、至陽平」)、結局、漢中は劉備の手中に落ち、曹操は「幾らか大敗に瀕した」(『三国志・先主伝』:「操引軍還、遂有漢中」)。
これは決して劉備の「総合国力」が曹操を上回っていたからではない。
漢中という戦場において、劉備軍の「戦闘力」が曹操軍を凌駕したからである。
関羽・荊州戦線 — 三万の兵が華夏を震わす
関羽が荊州に駐屯していた頃、動員可能な兵力は、多く見積もって三万程度であった。
この兵力、果たして「多い」と言えるだろうか?
曹操陣営の荊州守備軍は、これと同等かそれ以上の兵力を擁していた。
曹仁は東線から転戦し、自軍を率いていた。
関羽討伐のため、曹操は曹仁に増援を送ったはずである。
侯音の乱後には、龐徳率いる機動部隊も曹仁に編入された(『三国志・龐徳伝』:「徳遂為仁部曲」)。
これほどの兵力優勢を以てしても、関羽を止められたか?
襄陽郡諸県は次々と陥落し、襄陽太守は行方不明となった(『資治通鑑・卷六十八』:「羽攻拔襄陽、太守棄城走」)。
曹仁、荊州刺史、諸郡太守、龐徳らは樊城に追い詰められ、退く余地すらなかった。
襄陽郡最北端の県は「襄陽県」である。
襄陽城は漢水の南岸にあり、その対岸の渡口衛星都市が「樊城」——北岸に位置する(『水経注・沔水』:「漢水又東逕襄陽縣故城北、魏置襄陽郡於此」)。
ここからさらに退けば、襄陽郡の境界そのものを失うことになる。
満寵が豫州兵団を率いて救援に駆けつけたが、関羽を阻めたか?
于禁が七軍を率いて救援に赴いたが、関羽を阻めたか?
徐晃が予備隊と諸営を率いてようやく関羽に初の敗北を喫させたが、救えたのは「樊城」のみ。
襄陽城は依然、関羽軍の包囲下にあった(『三国志・徐晃伝』:「晃攻羽、破之、羽退走」)。
関羽が襄陽から撤退したのは、孫権・呂蒙が荊州を奇襲したからに他ならない(『三国志・呂蒙伝』:「蒙至尋陽、盡伏其精兵」)。
兵力で言えば、襄樊戦場における曹軍の投入兵力は、関羽の三倍以上であったはずである。
その結果がこれである。
孫権の裏切りがなければ、関羽は撤退しなかった。
では、なぜ孫権は荊州を背後から襲ったのか?
それは「孫権が関羽を討って曹操に功を立てようとした」からである(『三国志・呉主伝』:「權遂遣蒙襲荊州、討羽自効」)。
では、なぜ孫権は「自効」を急いだのか?
それは「曹操が使者を遣わして土地を割譲した」からである(『資治通鑑・卷六十八』:「操使使以書誘權、許割江南」)。
では、なぜ曹操はそんな譲歩をしたのか?
——関羽が「水淹七軍」を成し、威は華夏に震えさせたからである(『三国志・関羽伝』:「羽威震華夏、曹公議徙許都以避其鋭」)。
これは決して関羽の「国力」が曹操・孫権を上回っていたからではない。
関羽個人の「超然たる戦闘力」が、天下を震撼させたからである。
希望とは「戦闘力」が生み出すもの
人々が「劉備政権には天下統一の可能性があった」と感じ、その可能性を「非常に高い」と評価するのは、単に劉備陣営への好意的バイアスのためではない。
歴史が実際に記録した彼らの「戦闘力の爆発」が、人々に希望と期待を与えたからである。
だからこそ、関羽が曹操と孫権の明暗の矢に倒れ、
劉備・張飛・法正らが急速に凋落していく様を目の当たりにした時、
後世の者は皆、胸を締め付けられ、深い溜息を漏らさずにはいられない(『三国志・先主伝』裴松之注引『諸葛亮集』:「先主歎曰、『關、張、馬、黄、法、皆一時之傑、而今零落殆盡、痛哉!』」)。
結語:天下は「弱きが勝つ」の連続である
天下を取るとは、絶えず「弱きが勝つ」を繰り返し、実力を拡大していくプロセスである。
希望の有無は「戦闘力」にかかっている。
最初から最大の領土と最強の兵力を持っている必要など、ないのだ。