関東連合軍はなぜ董卓に勝てなかった?
この時期の史書記録は、確かに断片的で散漫である。しかし、諸史料を丹念に綴り合わせれば、以下のような時間軸が浮かび上がる。関東諸侯が「董卓討伐連合軍」を結成。その声勢は轟々たるもので、「清君側」の旗印を掲げ、天下に響き渡った。しかし、董太師(董卓)はこの直前、娘婿・牛輔が白波賊との戦いで大敗を喫していた。
この時期の史書記録は、確かに断片的で散漫である。しかし、諸史料を丹念に綴り合わせれば、以下のような時間軸が浮かび上がる。
◆ 初平元年(西暦190年)初頭
関東諸侯が「董卓討伐連合軍」を結成。その声勢は轟々たるもので、「清君側」の旗印を掲げ、天下に響き渡った。
しかし、董太師(董卓)はこの直前、娘婿・牛輔が白波賊との戦いで大敗を喫していた。そこに今度は関東の大軍が押し寄せたため、董卓は真に脅威を感じ、「遷都」を決断。群臣の反対を押し切り、二月には献帝と洛陽の民衆を強制的に西へ移動させ、自らは洛陽に残って情勢を窺った。
《後漢書・董卓伝》より:
「卓が遷都を議す。司徒楊彪曰く『関東の兵は瓦解するのみ、何ぞ動ずるや』と諫めたが、卓は聞き入れず。遂に帝と百官を長安へ移す。洛陽の宮室を焼き払い、民を驅逐して西へ向かわしむ。」
◆ 初平元年二月〜初平二年二月(190年2月〜191年2月)
ところが、董卓が恐れた「関東連合軍」は、実は「紙の虎」に過ぎなかった。
この一年間、董卓軍は戦えば戦うほど勝ち続け、「敗北」という文字を忘れてしまったかのようである。
たとえば、董卓麾下の名将・徐栄は、曹操(曹孟徳)、関東諸将、さらには猛将・孫堅までも次々と撃破。その戦果は史書に明々と記されている。
《三国志・武帝紀》裴松之注引《英雄記》:
「徐栄は曹操を滎陽にて破り、操は馬を失い、僅かに身を免れる。」《後漢書・董卓伝》:
「関東諸将、各々異心を抱き、進軍せず。徒に名を挙げて兵を動かすのみ。」
この時期、董卓の心境は明らかに変化した。当初の「戦略的後退(遷都)」から、「戦略的攻勢」へと転じたのである。おそらく、関東軍の無能ぶりを見て、「もう逃げる必要はない」と判断したのだろう。
◆ 初平二年二月(191年2月)|陽人城の戦い
董卓は猛将・呂布と胡軫を派遣し、孫堅を追撃させる。しかし、この二人は不和で指揮系統が乱れ、孫堅の奇襲に大敗。この戦いで、董卓軍の勇将・華雄も討ち取られた。
《三国志・孫破虜討逆伝》:
「堅は陽人にて胡軫・呂布を破り、都尉華雄を斬る。」
戦後、孫堅は夜を徹して袁術の陣営へ赴き、兵糧の補給を強く要求。袁術は面目を失い、やむなく「糧草は必ず供給する」と誓約したという。
《後漢書・袁術伝》:
「孫堅が糧を求め、術は面を赤らめて応じざるを得ず。」
この後、孫堅は内部の足並みを整え、勢いに乗って西進を開始。董卓本隊を破り、さらに呂布をも打ち破り、ついには洛陽城下まで進軍したのである。
なんと、数十万を誇った「関東連合軍」が董卓に翻弄される中、孫堅ただ一人が董卓政権の中枢を粉砕し、洛陽を奪還した——この事実は、あまりにも劇的で、皮肉に満ちている。
◆ 初平二年四月(191年4月)
洛陽を失った董卓は、最後の切り札として孫堅との和親を提案する。しかし、孫堅は「忠節を曲げず」これを断固拒否。
《三国志・孫破虜討逆伝》裴松之注引《江表伝》:
「卓が堅に和親を申し入れたが、堅曰く『卓は国賊なり。今日、天の命によりてこれを誅せんとす。何ぞ婚姻を結ぶや!』と拒絶した。」
もはや打つ手なしと見た董卓は、孫堅の西進を阻むため防衛線を敷き、潁川の小県を屠って民を殺戮し、「大勝利」と偽って凱旋を装い、長安へと退却した。
《後漢書・董卓伝》:
「卓は潁川を屠り、民の首を挙げて功となし、凱旋の儀を挙げて長安に入る。」
【まとめ】
- 関東連合軍は「声だけ大きく、実力ゼロ」。
- 董卓は「最初はビビったが、すぐに調子に乗った」。
- そして孫堅は——「一人で天下を動かした孤高の猛将」。
史書の断片をつなげれば、そこには「連合の虚しさ」と「個人の輝き」が、鮮やかに浮かび上がる。