桓温の北伐はなぜ失敗した?古籍が明かす戦略的誤謬
桓温という人物は、軍事的戦略において根本的に誤った方法論を採っていた。彼がいかなる動機からそう行動したかはさておき、ここでは私が観察した事実のみを述べる。彼は戦役の準備段階において明らかに調査・計画が不十分でありながら、なお「機会主義」的な僥倖心理に頼り、戦場における消極的な指揮によって準備不足を補おうとした。機動力に劣る南朝において
桓温という人物は、軍事的戦略において根本的に誤った方法論を採っていた。彼がいかなる動機からそう行動したかはさておき、ここでは私が観察した事実のみを述べる。彼は戦役の準備段階において明らかに調査・計画が不十分でありながら、なお「機会主義」的な僥倖心理に頼り、戦場における消極的な指揮によって準備不足を補おうとした。機動力に劣る南朝において、これは騎兵優位を有する北朝に戦場の主導権を全面的に委ねることに等しく、北伐によって得られるべき戦略的主動性を自ら放棄したも同然である。このような戦法で勝利を収められるとすれば、かえって不思議であろう。
《晋書·桓温伝》に曰く:「温は軽兵を率いて急進し、成漢を討つべしと定めたが、その決意は揺るぎなく堅固ならず。」
—— 実際、成漢征討においては「軽兵急進」の戦略を定めながら、それに見合う戦役的決意を欠いていた。奇襲を狙い、挫折すれば即座に撤退を考えるという虎頭蛇尾の体たらくであった。鼓手が誤って進撃の鼓を打たなければ、おそらく全軍崩壊に至っていたであろう。
《資治通鑑·晋紀》にはこう記される:「秦は堅壁清野の策を用い、温の軍は糧道を断たれて動けず、遂に大敗を喫す。」
—— 前秦が「堅壁清野」を実行したらどうするのか?関中豪族が協力しなかったらどうするのか?一切の予備案なしに陣営を構えて待機し、敵の準備が整ったところで撃破される。これでは敗北は必然である。
《宋書·武帝紀》に引く『十六国春秋』の記述:「石門塞がれ、霖雨なし。温の軍、糧尽きて退く。」
—— 石門が塞がれたら?雨が降らなかったら?これまた一切の対応策なし。このような根本的リスクを放置し、「陣営を固めて硬寨を築き、呆戦を打つ」ことで補えるとでもいうのだろうか?それはまさに笑止千万である。
事前は機会主義、事後は逃亡主義。五心不定(心が定まらず、決断を欠く)—— これでは敗北は避けられぬ。《孫子》曰く:「多算勝ち、少算勝たず。」桓温はまさに「少算」の典型である。
彼を高く評価する見解が存在するのは無理もない。桓温の軍事的基礎能力——兵士の訓練能力、戦闘指揮の手腕——は確かに優れていた。そのため、北朝の精鋭と対峙しても「見かけ上は互角」に見える戦いを繰り広げたように見える。相手が当世の英傑ばかりであることを考えれば、その錯覚も理解できる。
しかし、前述の根本的誤謬を抱えたままでは、基礎能力がいくら優れていても勝利は困難である。より広く知られた言葉で言えば——「路線が間違っていれば、知識が多いほど反動的になる」(路線錯誤、知識越多越反動)—— これこそ桓温の本質である。
当時の政治情勢による妥協であったとしても、純粋に軍事的観点から見れば、桓温のこの誤った軍事路線は極めて深遠な影響を及ぼした。誇張ではなく、南朝のいわゆる「名将」の多くを道に迷わせた。ここでは二人を特に批判する:檀道済と曹景宗である。
《南史·檀道済伝》には「道済、兵を練る能あり、戦えば小勝を収むるも、大略を欠く」とあり、《梁書·曹景宗伝》にも「景宗、勇猛の名ありて実を伴わず、戦場の体面を保つに過ぎず」と記される。
—— いずれも基礎能力はあるが、真の危機に直面すれば臆して前進せず、見かけ上の「体面ある戦い」で戦略的価値のない小勝を重ね、名将の看板を保とうとした。彼らが史書に「名将」として残っているのは、実は真の巨星——たとえば劉裕や韋叡——が彼らを「体系的プレイヤー」として引き連れ、戦果を「刷り」(刷データ)た結果に過ぎない。
このような将は、真の天才に「帯飛」(引き連れられて勝つ)されて執行者に徹するか(檀・曹の如し)、あるいは自覚があって出陣を控えるべきである(沈慶之の如し)。《魏書·世祖紀》に拓跋燾が劉宋を嘲った言葉:「呉兵軽果、夜戦を好み、一攫千金を狙うのみ」—— これもまた、戦略的全体構想を欠いた機会主義的戦争の典型である。
南朝における「正しい軍事路線」とは?
それは戦略と戦術、攻撃と防御の弁証法的統一を理解することにある。
攻撃とは「主動的かつ困難な戦闘形態」であり、防御は「受動的かつ容易な戦闘形態」である。南朝の北伐は戦略的には「主動」であるべきゆえ、攻勢姿勢を取るべきである。しかし戦術的には「以歩制騎」(歩兵で騎兵を制する)の困難を直視し、むしろ防御的態勢を採るべきである。すなわち——積極的かつ勇猛な戦略的機動によって敵の布陣とリズムを攪乱し、具体的な戦場に至っては、工事(営壘)と器械(車陣・水軍)を活用して防御態勢をとり、北朝騎兵の衝撃を受ける—— という戦法である。
しかしこの戦法は、主将の智勇が卓越し、兵士の質が極めて高いことを前提とする。ゆえに六朝を通じて、この正しい路線を完璧に実践しえた者は、ただ二人——前には劉裕、後には韋叡—— だけである。
《宋書·武帝紀》に曰く:「裕は進みて敵を破り、退きては陣を固くす。攻守自在、機を制す。」
《梁書·韋叡伝》には:「叡は車陣を結び、水軍を用いて騎を制す。敵を動かし、我は動かず。」
—— これこそ、南朝唯一の正道なり。