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袁隗はなぜ董卓の台頭を止められなかったのか?​

何進が独裁的な権力を握るのは見苦しい。そこで袁隗を「飾り」として据えたのである。前者(何進)は宮中の政変に斃れ、後者(袁隗)は東漢王朝における名目上の首輔(しゅく)——すなわち「太傅・録尚書事」の地位にあった。彼は何を為すべきだったのか?「按部就班、徐々に権力を回収すればよいだけではないか」

龍の歩み龍の歩み

何進が独裁的な権力を握るのは見苦しい。そこで袁隗を「飾り」として据えたのである。前者(何進)は宮中の政変に斃れ、後者(袁隗)は東漢王朝における名目上の首輔(しゅく)——すなわち「太傅・録尚書事」の地位にあった。

彼は何を為すべきだったのか?

「按部就班、徐々に権力を回収すればよいだけではないか」

『後漢書・袁安伝』に曰く:

「隗、四世三公、門生故吏遍天下」

——《後漢書》

この袁氏四世三公の威光と人脈を背景に、録尚書事としての権限——すなわち、何進・何苗の幕府を抑え、廟堂の群臣を統べ、京師内外の武装勢力を指揮する権能——をまっとうに行使すれば、秩序は回復し、人心は安定したはずである。

董卓が洛陽に入城した際、朝中の文武百官、洛陽内外の勢力は、みな「太傅・録尚書事」袁隗を首魁として仰いだ。《三国志・魏書・董卓伝》裴松之注引《英雄記》にも:

「卓至、百官皆詣卓、唯隗不往」

——《英雄記》

とあるが、これは袁隗が権威を保持していた証左である。にもかかわらず、彼は董卓を洛陽城内に留め置き、その軍勢を城外に駐屯させ、盧植・袁紹・袁術らに禁軍を率いさせて監視させればよかった。その後、董卓に爵位・官職を与えて朝中に置き、実権を奪い、城外の兵は解散または諸軍に分散配置すれば——何の混乱があろうか?

董卓が権力を掌握したのは、他でもない——唯一残された首輔・袁隗の「不作為」が原因である。

我ら凡人であっても、政治・軍事の力を自らの傘下に収め、実力と権力を基盤としてこそ「傀儡」を操れるものだ。自らの最高権限を他人に手渡し、「傀儡を育てる」と称するのは、愚かというほかない。

何進であろうと董卓であろうと、いずれも「天子の次に権力を持つ者」であった。袁隗に何の徳と能力があって、歴史を改竄し、「袁隗が黒幕で、何進・董卓は傀儡だった」という物語を捏造できるというのか?

袁隗は極めて軟弱で臆病であった。何進と「共に録尚書事」を務めていたが、実際はただの「数合わせ」——《出師表》における郭攸之のごとく、「備員」に過ぎなかったのである。

《出師表》:「侍中・侍郎郭攸之・費禕・董允等、此皆良実、志慮忠純…宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行」

——諸葛亮《出師表》

郭攸之とは、忠実ではあるが実務能力に乏しく、装飾的な存在であった。袁隗も同様、四世三公という最高の「政治的背景板」を持ちながら、それを活かせず、虚名のみで実権なき「政治的花瓶」に甘んじた。

何進が選んだのは、まさに「無能な人物」であったからこそ、何進死後、袁隗は何の作用も果たせず、董卓の権力簒奪を許した。袁氏一族で真に頭脳と野心を持った者は早くに逃げ去り、袁隗ら流されるままの者だけが残された——その末路は必然である。

袁紹・袁術が董卓討伐を唱えたとき、誰が彼らを「馬超・曹操のごとく非難」しただろうか? 彼らは行動した。袁隗はしなかった。

結局のところ、袁隗は袁紹・袁術に「裏切られて」死んだのではない。自らの愚かさによって死んだのだ。

一国の首輔、一介の大臣として、職責を果たさず、忠を尽くさず、本分を忘れ、国家の安危を顧みず、一族の禍福を察することもしない——

《左伝・宣公十二年》:「君能制命、則民服;不能、則亂」

——《左伝》

君主(または大臣)が命(みことのり)を制することができなければ、乱れる——袁隗はまさに「命を制せず、乱を招いた」典型である。

彼が死なずして、誰が死ぬというのか?


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