多くの人は、「秦始皇以降、封建制度(分封制)は消滅した」と理解している。古代の史官もまた、「封建変じて郡県となる」(『漢書・地理志』より)と記しており、この「封建」とはまさに「封邦建国」すなわち分封制を指す。しかし実際には、中国古代史は「分封制と郡県制、いかにバランスを取るべきか」という問いの歴史とも言える。...
劉備が益州を拠点とした際、実戦に投入可能な兵力は、精々六〜七万に過ぎなかった。この兵力、果たして「多い」と言えるだろうか?袁紹は官渡の戦いに際し、兵を精鋭に絞っても尚、十万余を動員した(『後漢書・袁紹伝』:「紹悉衆拒操、兵十餘萬」)。孫権が合肥に親征する際には、十万の大軍を率いるのは日常茶飯事であった(『三国志・呉主伝』:「權率十萬衆圍合肥」)。...
桓温という人物は、軍事的戦略において根本的に誤った方法論を採っていた。彼がいかなる動機からそう行動したかはさておき、ここでは私が観察した事実のみを述べる。彼は戦役の準備段階において明らかに調査・計画が不十分でありながら、なお「機会主義」的な僥倖心理に頼り、戦場における消極的な指揮によって準備不足を補おうとした。機動力に劣る南朝において...
甘寧が斬った「名将」はたった一人——しかも「誰かの親父」。しかもその「首」はただの校尉。息子が騒ぎ立ててなければ、歴史にすら残らなかったかも。その「誰か」とは——張遼である。では、張遼が斬った「名将」リストを見てみよう:① 蹋頓(烏桓の単于・超ハイクオリティ人頭)《三国志・張遼伝》より:「従征袁尚於柳城、卒与虜遇、遼勧太祖戦...
西漢の歴史は、まさに「熱血大男主人公」が天下を取るネット小説のような爽快な物語である。一方、東漢の歴史は、宮廷内の権力争いと後宮の嫉妬に明け暮れる「家庭ゴシップ連続ドラマ」に過ぎない。大多数の人は、熱血爽文を好むものであり、退屈な家庭劇には惹かれない。ゆえに、東漢史が西漢史ほど人気を博さないのは当然のことである。...