唐宣宗は本当に「小太宗」だったのか?その「中興」は実力か、それとも運か?
歴史的人物を評価するにあたって、「本伝のみを読む」という一面的な方法がある。同様に、帝王を評価するにも、その在位中の出来事だけに目を奪われてはならない。その時代の歴史的文脈や国際情勢、そして前後の政権との連続性を踏まえてこそ、公正な評価が可能となる。安史の乱以後、唐の諸帝は「中興」を掲げ、帝国の再建に尽力した。
歴史的人物を評価するにあたって、「本伝のみを読む」という一面的な方法がある。同様に、帝王を評価するにも、その在位中の出来事だけに目を奪われてはならない。その時代の歴史的文脈や国際情勢、そして前後の政権との連続性を踏まえてこそ、公正な評価が可能となる。
安史の乱以後、唐の諸帝は「中興」を掲げ、帝国の再建に尽力した。これは一朝一夕に成し遂げられるものではなく、長期的かつ困難な事業であった。彼らはまるでリレー競走の選手のように、次々とバトンを受け継ぎながら、険しくも果てしない道を走り続けたのである。なかには道が極めて険しかった皇帝(徳宗)もいれば、比較的平坦な道を走れた皇帝(憲宗・武宗)もいた。そして、最も恵まれた「康荘大道」を走った皇帝こそ、唐宣宗である。
宣宗の「中興」を支える二大要因
宣宗の治世が「中興」と称される理由は、主に以下の二点に集約される。
- 河湟(かこう)の収復——その名声は確かに堂々たるものである。
- 彼の死後、唐は急速に衰退した——そのため、「もし宣宗がもう少し長生きしていたら」という幻想が広まった。
その他の「従諫如流(忠告をよく聞き入れる)」「恭倹(謙虚で倹約)」といった美徳は、あくまで付随的な装飾にすぎない。もし河湟の収復という大功績がなく、あるいはその治世中に農民蜂起や南詔の反乱が起きていたならば、誰も彼の節倹や納諫を称えることはなかっただろう。
たとえば唐文宗は、「衣を三度洗っても替えず」というほど倹約家であった。しかし柳公権は直言してこう言った。
「陛下の御衣を洗い繰り返すなど、細事にすぎず、帝王の徳とは無関係なり。」(『旧唐書・柳公権伝』)
文宗はこれを怒らず、かえって柳公権を諫議大夫に任じ、さらに諫言を求めた。これほどまでに節倹・納諫に努めたにもかかわらず、後世に「明君」として評価されることはなかった。なぜなら、その治世中に「甘露の変」という恥辱的な事件が起きたからである。
ところが、上述の「中興」の二大要因は、実は宣宗個人の能力とはほとんど関係がない。
一、河湟の収復——「天から降ってきた餡子饅頭」
大中5年(851年)10月、張義潮(ちょう ぎちょう)は兄の張義沢(ちょう ぎたく)を遣わし、河湟十一州の図籍を携えて長安に赴き、宣宗に拝謁した。吐蕃に数十年間占領されていた河湟地方が、ついに唐に復帰したのである。全国が歓喜に包まれた。
しかし、この成果は、宣宗の英断や軍事的才能によるものではない。むしろ、吐蕃の内乱と衰退という歴史的大潮流の産物である。
吐蕃の衰退は、すでに徳宗の時代から始まっていた。徳宗は回鶻(ウイグル)と連携し、南詔(雲南)を懐柔することで吐蕃を孤立させ、外交的に圧迫した。だが、決定的な打撃を与えたのは武宗の時代である。
会昌2年(842年)、吐蕃で内戦が勃発した。ダルマ・ツェンポ(達磨贊普)が後継者を残さず死去すると、妃と宰相が共謀して三歳の幼児を傀儡として擁立した。これに反発した論恐熱(ろん きょうねつ)が挙兵し、自ら国相を称して反乱を起こした。対するは鄯州節度使・尚婢婢(しょう ひひ)——両者は二十余年にわたり激しく抗争し、吐蕃国内は疲弊しきった。
「蘇毗等疑不戦、恐熱引驍騎渉水、蘇毗等皆降、思羅西走、追獲、殺之。恐熱尽併其衆、合十餘万、自渭州松州、所過残滅、尸相枕藉。」(『資治通鑑』巻246)
「是月、吐蕃論恐熱屯大夏川、尚婢婢遣其将厖結心及莽羅薛呂将精兵五万撃之……恐熱大敗、伏尸五十里、溺死者不可勝数、恐熱単騎遁帰。」(『資治通鑑』巻246)
このような内乱のさなか、河西・隴右の民衆は苦しみ抜き、唐への帰順を望むようになった。大中3年(849年)2月、吐蕃の秦・原・安楽三州および石門等七関の軍民が唐に降伏した。宣宗は直ちに陸耽(りく たん)を宜諭使として派遣し、諸鎮に兵を出してこれを援護させた。
「吐蕃秦・原・安楽三州及石門等七関来降。以太僕卿陸耽為宜諭使、詔泾原・寧武・鳳翔・邠寧・振武皆出兵応接。」(『資治通鑑』巻248)
同年、河隴の老若男女千余人が長安に詣で、宣宗は延喜門楼に臨んでこれを謁見した。民衆は胡服を脱ぎ、唐の冠帯を着けて歓呼し、「万歳!」と叫んだ。
「河・隴老幼千餘人詣闕、己丑、上御延喜門楼見之、歓呼舞躍、解胡服、襲冠帯、観者皆呼万歳。」(『資治通鑑』巻248)
その後も吐蕃の内戦は激化し、尚婢婢と論恐熱は大中4年(850年)にも激突した。その惨状は『資治通鑑』にこう記される:
「婢婢糧乏、留拓跋懐光守鄯州、帥部落三千餘人就水草於甘州西。恐熱聞婢婢棄鄯州、自将軽騎五千追之。至瓜州、聞懐光守鄯州、遂大掠河西鄯・廓等八州、殺其丁壮、劓刖其羸老及婦人、以槊貫嬰児為戯、焚其室廬、五千里間、赤地殆尽。」(『資治通鑑』巻248)
このような混乱の中で、張義潮は機を見て沙州で挙兵し、大唐の旗を掲げた。
「義潮、沙州人也。時吐蕃大乱、義潮陰結豪傑、謀自抜帰唐。一旦、帥衆被甲噪於州門、唐人皆応之、吐蕃守将驚走、義潮遂摂州事、奉表来降。」(『新唐書・吐蕃伝』)
その後、張義潮は瓜・伊・西・甘・粛・蘭・鄯・河・岷・廓の十州を次々と平定し、兄を通じて十一州の図籍を献上した。
「張義潮発兵略定其旁瓜・伊・西・甘・粛・蘭・鄯・河・岷・廓十州、遣其兄義沢奉十一州図籍入見、於是河・湟之地尽入於唐。」(『新唐書・吐蕃伝』)
ただし、実際には尚婢婢(甘州)、拓跋懐光(鄯州)、論恐熱(廓州)の三大勢力は依然として存在しており、張義潮はこれらを撃破したわけではない。つまり、河湟の「光復」は、吐蕃の内乱という歴史的機運に乗じたものであり、宣宗の功績とは言い難い。
要するに、河湟の収復は「天から降ってきた餡子饅頭」であり、宣宗はただその場にいただけなのである。
二、背負わされた「悪名」——唐懿宗の悲劇
宣宗が「康荘大道」を13年間走り抜けた後、そのバトンを受け取ったのは息子の懿宗だった。だが、彼が走り始めた途端、目の前には泥沼が広がっていた。
宣宗は大中13年(859年)8月に崩御した。同年12月、浙東で裘甫(きゅう ほ)の乱が勃発した。わずか4か月の間に、第一の危機が襲来した。果たして、この乱が懿宗の政治的失策によるものだろうか?もし宣宗が1年長生きしていたら、乱は起きなかっただろうか?
答えは否である。乱の種は、すでに宣宗の治世中に蒔かれていた。
「時二浙久安、人不習戦、甲兵朽鈍、見卒不満三百、鄭祗徳更募新卒以益之。軍吏受賂、率皆得孱弱者。」(『資治通鑑』巻250)
浙東観察使・鄭祗徳(てい しとく)が敗北したのは、軍が腐敗し切っていたためである。兵士は三百人にも満たず、武器は錆び、軍吏は賄賂を受け取って老弱ばかりを徴募していた。このような腐敗は、懿宗の短期間の治世で形成されたものではない。むしろ、宣宗時代から温存されてきた構造的問題なのである。
さらに、周辺の浙西・宣歙(せんしゅう)両鎮も同様だった。
「祗徳饋之、比度支常饋多十三倍、而宣・潤将士猶以爲不足。宣・潤将士請土軍爲導、以與賊戦。諸将或称病、或陽墜馬、其肯行者必先邀職級、竟不果遣。」(『資治通鑑』巻250)
結局、懿宗は河南・淮南の精鋭を動員し、大中14年(860年)6月にようやく乱を鎮圧した。この過程からも、問題の根源は宣宗時代にあり、懿宗は単に「タイミングの悪さ」で背鍋を背負ったにすぎない。
しかも、安堵も束の間。同年12月、南詔が交趾(こうし)を陥落させ、唐は西南辺境の戦争に巻き込まれる。この南詔侵寇の原因も、『資治通鑑』は明確に記している。
「初、安南都護李涿爲政貪暴、強市蛮中馬牛、一頭止與塩一斗。又殺蛮酋杜存誠。群蛮怨怒、導南詔侵盗辺境。」(『資治通鑑』巻250)
李涿(り たく)という宣宗朝の官僚が、蛮族を搾取・虐殺したことで、南詔との関係が悪化したのである。さらに、西川節度使・杜悰(と そう)が南詔の朝貢回数を減らすよう進言し、宣宗がこれを承認したことも、南詔の怒りを買った。
「又、蛮使入貢、利於賜與、所從傔人浸多、杜悰爲西川節度使、奏請節減其数、詔従之。南詔豊祐怒、其賀冬使者留表付巂州而還。」(『資治通鑑』巻250)
加えて、邕州(ようしゅう)の防備も著しく劣化していた。
「先是、広・桂・容三道共発兵三千人戍邕州、三年一代。……李蒙利其闕額衣糧以自入、悉罷遣三道戍卒、止以所募兵守左右江、比旧什減七八、故蛮人乗虚入寇。」(『資治通鑑』巻251)
こうした腐敗は、懿宗の責任ではなく、200年余り続く王朝の末期に必然的に生じる構造的病弊である。平和な時代には隠されていたが、一旦外患・内乱が起きれば、その脆弱性が露呈するのである。
そして、南詔戦争の副産物として、咸通9年(868年)7月、龐勲(ほう くん)の乱が勃発した。桂州に長期駐屯させられていた徐州兵が帰還を拒まれ、反乱を起こしたのである。
「龐勲募人爲兵、人利於剽掠、争赴之、至父遣其子、妻勉其夫、皆断鋤首而鋭之、執以應募。」(『資治通鑑』巻251)
民衆はこれを「解放軍」として歓迎し、父は子を、妻は夫を戦場へ送った。懿宗は1年余りかけてこれを鎮圧したが、その直後、南詔は成都を包囲し、4か月にわたる攻防戦が始まった。
懿宗の14年間の治世のうち、最初の11年は戦争に明け暮れた。もし宣宗がこの11年を生きていたとしても、果たしてより良い結果を出せただろうか?おそらく、同じように四苦八苦したであろう。そして、「小太宗」という評価も、色あせたに違いない。
結論:「大中の暫治」は、運の産物である
唐宣宗の「中興」は、決して彼の卓越した統治能力によるものではない。
河湟の収復は吐蕃内乱という歴史的幸運の賜物であり、
腐敗の爆発は彼の死後に持ち越された「時間差爆弾」だった。
彼はただ、帝国が崩壊する直前の「静かな13年」に在位した幸運な皇帝にすぎない。
その「大中の暫治(たんじ)」は、「治世」ではなく「崩壊の前夜の静けさ」にほかならない。