なぜ袁紹が関東連軍の盟主になれたのか?「四世三公」とは何ですか?
序論:なぜ渤海太守・袁紹が関東連軍の盟主となったのか?東漢末年、名を残した人物は数多く、関東諸侯連合軍にも兗州牧・劉岱や冀州牧・韓馥といった州牧クラスの有力者がいた。それにもかかわらず、なぜただの「渤海太守」に過ぎない袁紹が盟主の座についたのか?一言で言えば、「袁紹は四世三公たる汝南袁氏の嫡流継承者だから」である。
序論:なぜ渤海太守・袁紹が関東連軍の盟主となったのか?
東漢末年、名を残した人物は数多く、関東諸侯連合軍にも兗州牧・劉岱や冀州牧・韓馥といった州牧クラスの有力者がいた。それにもかかわらず、なぜただの「渤海太守」に過ぎない袁紹が盟主の座についたのか?
一言で言えば、「袁紹は四世三公たる汝南袁氏の嫡流継承者だから」である。
だが、この一言では説明にならない。
- そもそも「四世三公」とは何か?
- 「四世三公」がどれほどの権威を持つか?
- 家族の栄光と袁紹個人の能力とはどう関係するのか?
- 袁紹が「袁家の後継者」とされる根拠はどこにあるのか?
これら四点こそが本質的な問いであり、これを明らかにしなければ真の回答とは言えぬ。
第一章:四世三公とは何か?
1. 「世」と「三公」の定義
「四世」とは四代にわたること。「三公」とは秦以来、皇帝直下の最高官職群を指す。『漢書・百官公卿表』には:
「丞相、太尉、御史大夫を三公と為す。」
前漢期までは上記三職が三公とされたが、後漢になると制度が変更され、『後漢書・百官志』によれば:
「光武中興、大司馬を太尉と改め、司徒・司空を置く。是を三公と称す。」
つまり、後漢期の三公とは「太尉」「司徒」「司空」である。これらは宰相級の実権職であり、非権臣体制下では国家運営の中枢を担う存在であった。
「四世三公」とは、袁氏一族が四代にわたって三公の座に就いたことを意味する。
2. 袁氏四代の系譜と三公就任者
初代:袁安(字:邵公)
汝南袁氏の祖。章帝朝にて司徒に至る。『後漢書・袁安伝』:
「袁安字邵公、汝南汝陽人也。……永元四年、遷司徒。」
『後漢書・袁安伝』
二代:袁敞(袁安の次男)
安帝朝にて司空。『後漢書・袁敞伝』:
「敞字叔平、少伝父業。……元初三年、遷司空。」
三代:袁湯(袁京の子、袁安の孫)
順帝・桓帝朝にて太尉。『後漢書・袁湯伝』:
「湯字仲河、……建和元年、遷太尉。」
四代:袁逢・袁隗(袁湯の子)
- 袁逢:司空(霊帝朝)
- 袁隗:司徒→太尉→太傅(同)
「自袁安以下四世居三公位、由是勢傾天下。」
『三国志・魏書・袁紹伝』裴松之注引『魏略』
このように、袁氏は四代連続で三公を輩出し、しかも第四世代では二人同時に高位を占めた稀有な一族であった。
第二章:四世三公の政治的重み
1. 社会的影響力 ——「門生故吏遍天下」
「高祖父安、為漢司徒。自安以下四世居三公位、由是勢傾天下。」
陳寿『三国志・袁紹伝』
「自袁安以下、皆博愛容衆、無所揀擇;賓客入其門、無賢愚皆得所欲、為天下所帰。」
魚豢『魏略』
つまり、袁氏は単なる高官ではなく、「天下の人心を集める磁石」的存在だった。
その源流は初代・袁安にある。袁安は郡功曹(現代で言えば副市長クラス)から出発し、後に三公に昇ったが、その背景には陳郡袁氏という古くからの名門があった。
「袁生者、善為楚言、常従高祖遊。」
『漢書・高帝紀』
この「袁生」こそ劉邦の創業期参謀であり、陳郡袁氏の祖とされる。さらに遡れば春秋戦国時代の陳国大夫・袁濤塗(とうと)の子孫とされ、『春秋左氏伝』にもその名が見える。
また、東漢末に流行した讖緯思想「代漢者當塗高」について、袁術は「塗=袁氏祖先の名に通ず」と解釈し、自らが天命を受け継ぐと信じた(『三国志・袁術伝』)。
第三章:袁紹個人と袁氏一族の関係
1. 袁紹の出自と養子縁組
「紹生而父死、二公愛之。」
王粲『漢末英雄記』
ここでいう「二公」とは、伯父・袁成(字:文開)のこと。袁紹は実父・袁逢の庶子であり、早逝した袁成の後継として養子に出された。
「紹即逢之庶子、術異母兄也、出後成為子。」
『魏略』
袁成は当時、外戚・梁冀と深く結びつき、洛陽政界で絶大な影響力を持っていた。『漢末英雄記』:
「成字文開、壮健有部分、貴戚権豪自大将軍梁冀以下皆与結好、言無不從。故京師為作諺曰:『事不諧、問文開。』」
この「文開ネットワーク」を、袁紹は完全に継承した。
2. 若き袁紹の暗躍 ——「奔走之友」の結成
袁紹は弱冠(20歳)で濮陽県長となるが、母喪・父喪と六年間隠棲。その間に秘密結社「奔走之友」を組織し、党錮の禍で迫害された士人を救済した。
「袁紹慕之、私与往来、結為奔走之友。」
『後漢書・党錮伝・何顒伝』
「又好游侠、与張孟卓(張邈)、何伯求、呉子卿、許子遠(許攸)、伍徳瑜等皆為奔走之友。」
裴松之注引『英雄記』
このメンバーは後の反董卓連合の要人ばかり。袁紹は若くして士人ネットワークの中心人物となっていた。
3. 中常侍・趙忠の警戒
袁紹の動きは宦官にも察知されていた。『後漢書・袁紹伝』:
「中常侍趙忠謂諸黄門曰:『袁本初坐作声価、不應呼召而養死士、不知此兒欲何所為乎?』」
これに対し叔父・袁隗は表面上叱責しつつ、逆に袁紹を大将軍・何進の幕僚に送り込む。これは士族と外戚の連携戦略の一環であった。
第四章:西園八校尉と権力闘争
霊帝は何進の力を削ぐため、西園八校尉を設置。『後漢書・何進伝』:
「帝以蹇碩壮健而有武略、特親任之、以為元帥、督司隷校尉以下、雖大将軍亦領属焉。」
袁紹は中軍校尉として蹇碩の下に入るが、実際には何進派として活動。曹操(典軍校尉)、淳于瓊(佐軍校尉)らも配下に置かれる。
しかし袁紹は故意に地方で「賊討伐」を遅延させ、何進の出征命令を回避。この膠着状態は霊帝の崩御(189年)まで続く。
第五章:霊帝崩御と宮廷クーデター
霊帝は遺詔で幼子・劉協(後の献帝)の即位を望み、蹇碩に託す。しかし何進は密偵・潘隠の警告で危機を回避。
十常侍は内部分裂し、蹇碩を裏切って何太后に接近。結果、長子・劉弁(少帝)が即位。袁隗は太傅となり、何進と共に「録尚書事」として実権を握る。
袁氏はここに至って「三公」を超え、「権臣」の域に入った。
第六章:袁氏による「借刀殺人」—— 何進暗殺と宦官粛清
袁氏は次の障壁としてかつての盟友・何進を排除せんと画策。袁紹の客・張津が何進に進言:
「選賢良、除国家之患!」
『後漢書・何進伝』
これにより袁術・逄紀・荀攸・何顒らが登用される。さらに袁紹は大胆な策を提案:
「多召四方猛将及諸豪傑、使並引兵向京城、以脅太后。」
『後漢書・何進伝』
董卓・王匡・橋瑁・丁原らが招集されるが、これらはすべて袁氏の人脈。
十常侍は偽勅で何進を宮中に誘い殺害。袁紹は直ちに反撃し、数千人の宦官を皆殺しにする。
張讓・段珪は少帝・陳留王を連れ邙山へ逃亡するが、盧植・閔貢の追撃により自害。盧植は袁隗の義理の甥(師・馬融は袁隗の岳父)。
第七章:董卓入京と袁氏の罠
董卓は巧妙な策略で洛陽を掌握:
- 外戚としての正統性構築(董太后一族を自称)
- 霊帝遺詔の再利用(劉協擁立)
- 何進残党の吸収
- 兵力の錯覚演出(夜間移動で兵力を偽装)
- 呂布の寝返り(丁原暗殺)
第八章:袁氏の反撃 ——「門生故吏遍天下」の真骨頂
董卓は周毖・伍琼・何顒ら「名士」の進言を信じ、各地の州郡長官を任命:
- 冀州牧:韓馥
- 兗州刺史:劉岱
- 豫州刺史:孔伷
- 南陽太守:張咨
- 陳留太守:張邈
「初、卓信任尚書周毖、城門校尉伍瓊等、用其所挙韓馥、劉岱、孔伷、張咨、張邈等出宰州郡。而馥等至官、皆合兵将以討卓。」
『三国志・董卓伝』
そして驚くべきことに、これらの人物はすべて袁紹の「奔走之友」またはその関係者!
さらに決定的なのは『三国志・袁紹伝』の記述:
「侍中周毖、城門校尉伍瓊、議郎何顒等、皆名士也、卓信之、而陰為紹。」
董卓が最も信頼した三人が、実は袁紹の内応だったのだ。
袁紹が董卓に反抗して逃亡しても、董卓は彼を渤海太守に任じる。その理由も周毖らの進言による:
「袁氏樹恩四世、門生故吏遍於天下、若收豪傑以聚徒衆、英雄因之而起、則山東非公之有也。不如赦之、拜一郡守、則紹喜於免罪、必無患矣。」
この「門生故吏遍天下」という表現こそ、四世三公の真の力を端的に示す言葉である。
第九章:なぜ袁紹が「袁家の後継者」なのか?
1. 家系上の地位
袁氏四兄弟:
- 長男:袁平(早逝)
- 次男:袁成 → 養子・袁紹を継承
- 三男:袁逢 → 実子:袁基(嫡長)、袁紹(庶→養子)、袁術(嫡次)
- 四男:袁隗 → 後見人として袁基を育成
本来なら袁基が家督だが、董卓の粛清で袁基・袁隗ともに処刑される。
2. 過継制度における嫡子格
中国の宗法制度では「過継子は嫡子と同等」とされる。袁紹は袁成の正式な後継者として認められていた。
3. 政治的資産
袁紹は「奔走之友」を通じて士人層との強固なネットワークを築いており、袁術には到底及ばぬ政治的基盤を持っていた。
結語:四世三公の底力 —— 歴史は血統と人脈が創る
袁紹が盟主たり得たのは、単なる偶然でも、一時の風雲でもない。それは汝南袁氏が四世代にわたって築き上げた「政治的信用・人的ネットワーク・文化的権威」の結晶であった。
董卓のような新興武人は、いくら兵力を持っても、中原の士大夫社会を支配することはできなかった。なぜなら、そこは袁氏が百年かけて編み上げた「見えざる支配網」が支配していたからである。
「紹有姿貌威容、能折節下士、士多附之、太祖少与交焉。」
『後漢書・袁紹伝』
袁紹の魅力は容貌や礼節だけではない。その背後には、四世三公の重厚な地殻が支えていたのである。