劉裕は本当に「寡兵で勝った英雄」なのか?盧循は広州一隅で10万の兵を動員できた?
古代の史官に限らず、現代人までもが「寡兵で強敵を破る」ような奇蹟的な戦いを殊更に称賛したがる傾向がある。しかし私見では、その多くは実に愚かしいとさえ言える。例えば、北魏の太武帝拓跋燾(拓跋焘)は、数十万の兵を擁する大国の君主でありながら、数千人規模の山胡(サンコ)を討つ際、毎日わずか数十騎で山中に乗り込み。
古代の史官に限らず、現代人までもが「寡兵で強敵を破る」ような奇蹟的な戦いを殊更に称賛したがる傾向がある。しかし私見では、その多くは実に愚かしいとさえ言える。
例えば、北魏の太武帝拓跋燾(拓跋焘)は、数十万の兵を擁する大国の君主でありながら、数千人規模の山胡(サンコ)を討つ際、毎日わずか数十騎で山中に乗り込み、自ら危険な場所に赴いていた。その結果、まさに【幾(いくばく)もなきに至る】という事態に陥った。果たしてこれは称賛に値することなのだろうか?
確かに「兵が少なかったから危険だった」とは言えるだろう。だが、なぜ兵が少なかったのか?それは拓跋燾自身の無謀な行動の結果に他ならない。
《魏書・世祖紀》:
「世祖討山胡白龍、意甚軽之、単将数十騎登山臨崄、毎日如此。白龍乃伏壮士十餘処、出於不意、世祖堕馬、幾至不測。」
同様に、「英雄天子」と称される北斉の高洋も、数十万の兵力を持つ大国の君主でありながら、北伐中に長城内側の恒州で敵に包囲されてしまった。そのような状況下で、史書が「高洋、わずか二千の兵で数万の胡軍を撃破した」と称えるのは、滑稽としか言いようがない。
戦争とは本来、局地的に優勢な兵力を集中させ、劣勢な敵を撃破することで優位を築くものである。十分な資源を持ちながら、わざわざそれを浪費して自らを劣勢に追い込み、その後「危機を乗り越えた」と称するのは、まさに本末転倒である。
劉裕:真の寡兵か、それとも資源統合力の限界か
では劉裕(宋武帝)はどうか。彼は上述の二人よりさらに問題がある。なぜなら、彼は実際に敵より兵力が少なかったからである。
まず桓玄を破った件については、特に非難の余地はない。桓氏は荊楚(けいそ)に長年根を下ろしており、劉裕は一朝にして挙兵したに過ぎない。これは正真正銘の「寡兵で強敵を破る」戦いである。
しかし盧循(ろじゅん)を破った戦いはどうか。
盧循は元興3年(404年)10月に広州を占拠したが、これは劉裕が義熙年間に朝政を掌握する直前、ほぼ同時期の出来事である。盧循が広州に到着した当初の兵力は数千人に過ぎなかった。
《晋書・盧循伝》:
「餘衆数千人、復推恩妹夫盧循為主。」
ところが、わずか6年後の義熙6年(410年)には、すでに「戎卒十万、舳艫千計(せきろせんけい)」という大軍閥へと成長していた。しかもその基盤は、宋代以前においては「野犬よりも野蛮」と評された嶺南一隅に過ぎない。荊・江・揚州がどれほど荒廃していたとしても、広州よりははるかに優れた地盤であったはずだ。
さらに重要なのは、盧循は孫恩(そんおん)とは本質的に異なる点である。孫恩は所詮、農民蜂起の指導者に過ぎず、たとえ「十数万の兵」と称されても、その多くは烏合の衆、あるいは女性まで含めた数え方であった。
一方、盧循は早くから一地方の諸侯としての体裁を整え、建康朝廷とも正式に貢御関係を結んでいた。
《宋書・武帝紀》:
「盧循有大志。所經必不傷人。其三吳旧賊、百戦餘勇。始興溪子、拳捷善闘。」
彼の軍隊は、農民兵のように「十人いても一人分の戦力にもならない」ような雑兵ではなく、実戦経験豊富な精鋭であった。実際、何無忌(かむき)を討ち取り、劉毅(りゅうよく)の軍をほぼ殲滅し、建康を陥落寸前まで追い込み、朝廷は遷都を検討するほどであった。これはまさに「一鉱で九鉱を打ち破る」真の意味での寡兵勝利である。
東晋の総兵力と広州の驚異的動員力
では当時の東晋の兵力はどうだったか。義熙9年(413年)、劉裕が朱齡石(しゅれいせき)に蜀を討たせる際、その兵力は2万余人とされ、「大軍の半ば」と称された。よって、この時期の劉裕勢力全体の兵力は、5万人を超えていなかったと推定される。
劉毅の舟師2万、何無忌も同規模と仮定し、劉道規(りゅうどうき)の荊州軍が1~2万、交州の杜氏が6千余……これらを合計しても、東晋全体でようやく10万に届く程度。つまり、広州一州で10万の兵を動員した盧循と、東晋全体がほぼ拮抗していたのである。
もし劉裕の政治能力が「依然として過小評価されている一流政治家」であると主張するなら、広州という辺境の地で6年間の統治で10万の兵を編成した盧循は、一体何者なのか?管仲・蕭何をも凌ぐ「超一流・火星級政治家」とでも言うのか?
民力の限界と敗北後の支持基盤
さらに注目すべきは、劉裕がその後、劉毅・諸葛長民・司馬休之らの内部勢力を併合し、対外的にも大幅に領土を拡大した後、義熙末年に後秦を討つ際の動員規模も、依然として10万に満たなかったことである。
《資治通鑑・巻118》:
「劉裕得関中、留其愛子、精兵数万、良将勁卒、猶不能固守、挙軍尽没。」
この時点で劉裕は青・徐・兗・豫・荊・江・揚・益の八州を支配していたにもかかわらず、動員兵力は10万に満たなかったのである。
「宋武帝は民力を愛し、窮兵黷武を避けたためだ」と擁護する声もあるだろう。しかし、当時の民力の限界は明らかである。
《資治通鑑・巻116》:
「昔歳西征、劉鐘狼狽;去年北討、広州傾覆;既往之効、後來之鑑也。今諸州大水、民食寡乏、三呉群盗攻没諸県、皆由困於征役故也。」
《宋書・鄭鮮之伝》:
「往年西征、劉鐘危殆、前年劫盗破広州、人士都尽。三呉心腹之内、諸県屡敗、皆由労役所致。又聞処処大水、加遠師民敝、敗散、自然之理。殿下在彭城、劫盗破諸県、事非偶爾、皆是無頼凶慝。」
これらの記録から明らかなように、劉裕の動員は民力の限界に近づいており、各地で反乱が頻発していた。一方、盧循は10万の兵で北伐し、敗北後も嶺南の俚(り)・獠(りょう)が彼に呼応している。
《宋書・盧循伝》:
「循雖敗、餘党猶有三千人、皆習練兵事。李遜子李奕・李脱等奔竄石埼、盤結俚・獠、各有部曲。循知奕等与杜氏有怨、遣使招之、奕等引諸俚帥衆五六千人、受循節度。」
これは一体、嶺南の俚・獠が鄭鮮之が言う「三呉の無頼凶慝」よりも忠義に厚いからなのか?
それとも、盧循の統治・搾取術が劉裕よりもはるかに巧妙だったからなのか?
跨時代比較:劉裕の兵力は本当に少ないのか
さらに時代を越えて比較すれば、劉裕が江南全域を支配した後の兵力は、孫呉や南朝陳(いずれも戸口200万以上)よりも劣っていた可能性すらある。孫呉・南陳ですら10万以上の兵を北伐に動員できたのである。劉裕の義熙年間の戸口が200万を下回っていたとは到底考え難い。
ゆえに私の見解では、劉裕の資源統合能力は、単なる「丘八(きゅうはち=兵卒上がりの武人)レベル」に過ぎなかった。ただ、その卓越した個人的軍事能力と、あまりにも弱小な敵が、その限界を覆い隠していたに過ぎない。
劉裕が滅ぼした政権の実態
- 南燕:『晋書・地理志』によれば、西晋時の青州は5万3千戸。慕容徳の載記を最大限に見積もっても10万余戸。南燕が「40万の兵」と称するのは誇張であり、広固の戦いで慕容超が9万の兵を擁していたかどうかも疑わしい(ほぼ「戸出一丁」の計算になる)。
- 後秦:かつては後燕と並ぶ大国だったが、赫連勃勃に10万以上、拓跋珪に4万を失い、領土も縮小。劉裕来襲時、ようやく「精兵十万」と称したが、実際には内乱と離反が相次ぎ、最終的に動員できたのは数万の歩兵のみであった。
- 譙蜀:歴代蜀政権中最も脆弱。劉敬宣が5千兵で攻めただけで交戦すら避けた。経済的にも「益土荒残、野無青草、成都之内、殆無孑遺」。地勢も「三陝之隘、在我境内、非有岑彭・荊門之険」と、防衛に適さなかった。
- 北魏:そもそも劉裕の「驅除(くじょ=討伐対象)」ではなかった。冒頓単于を「劉邦の天下争いの相手」と呼べないのと同じである。却月陣の戦いも、魏帝自ら主力を率いたものではなく、双方とも大規模衝突を避けようとする姿勢が見られた。
拓跋珪が代北から後燕を攻めた際には、すでに「魏師十万」と動員し、「四十万」と虚勢を張っていた。その後、河北——天下の経済的重心——を併合した北魏の国力は、劉裕が滅ぼした諸政権とは次元が異なる。
ゆえに、仮に劉裕の寿命がさらに延びたとしても、彼が天下を統一できるとは到底思えない。彼の軍事能力は、10万以下の兵力しか持たない一州政権を滅ぼすには十分だったが、数州を支配する大国に対して、果たして「所撃者破、所当者亡」を維持できたか?私は極めて疑問である。