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朱滔はなぜ河北で敗れたのか?王武俊と李抱真はどのようにして朱滔を破ったのか?

筆者の見解では、この戦いの勝敗を分けた最大の要因は、成徳軍(王武俊)と昭義軍(李抱真)が完璧な連携を見せ、強大な盧龍軍(朱滔)を撃破し、河北の情勢を安定させたことにある。一、前史:四王二帝の内訌と唐の転機「四王二帝」の乱が激化する中、逆に唐王朝に転機が訪れた。それは、叛軍内部に分裂が生じ始めたためである。

龍の歩み龍の歩み

筆者の見解では、この戦いの勝敗を分けた最大の要因は、成徳軍(王武俊)と昭義軍(李抱真)が完璧な連携を見せ、強大な盧龍軍(朱滔)を撃破し、河北の情勢を安定させたことにある。

一、前史:四王二帝の内訌と唐の転機

「四王二帝」の乱が激化する中、逆に唐王朝に転機が訪れた。それは、叛軍内部に分裂が生じ始めたためである。

建中三年(782年)十一月、朱滔は自ら「大冀王」と称し、李納・田悦・王武俊らもこれに倣って王号を僭称し、さらに南の李希烈と結んだ。ところが興元元年(784年)、田悦と王武俊は「朱滔の野心は測りがたく、堤防すべきではない」と判断し、唐に帰順した。

「三年十一月、滔僭称大冀王、偽署百官、李納・田悦・王武俊と並びて王を称し、南に李希烈を結ぶ。興元初、田悦・王武俊は硃泚が京師を据え、滔兵強盛にして首尾相応ずるを以て、田悦常に武俊に謂って曰く、『朱滔心険、堤防すべからず』と。遂に相率いて帰順す。」

——『旧唐書・朱滔伝』

その後、朱滔は兄・朱泚の扇動を受け、大軍を率いて河北に侵攻した。興元元年正月、朱滔は燕・薊の兵と回鶻・雑虜を率い、「号して五万」と称して南河に進軍し、貝州を包囲した。三月、魏州で田緒が田悦を殺害し内乱が勃発すると、朱滔は部将・馬実を王莽河に駐屯させた。

この危機に直面し、唐の徳宗は王武俊を「同中書門下平章事」に任じ、李抱真と協力して朱滔を討たせるよう命じた。王武俊の唐への帰順は、単に朱滔への警戒からではなく、李抱真の幕僚・賈林の巧みな説得によるものでもあった。

「抱真、客・賈林をして武俊に詐って降らしむ。既に見れば、林曰く、『吾は来たりて詔を伝う、降らず。』武俊色動く。林曰く、『天子、大夫が壇上に登り国を建国し、撫膺して左右を顧みて曰く、「我本忠義なり、天子省みず、故に是に至る」と。今諸軍数度表して大夫の至誠を上聞す。上、表を見て動色して曰く、「朕、前誤りて及ばざるなり。朋友失意尚ほ謝すべし、朕は四海の主、毫芒の過失ありとも、返って自ら新たらざるや!」と。今大夫、親しく逆首を断つ。而るに宰相、事に闇し。国家と大夫、烏有の細故あらんや?硃滔、利を以て相い動かす。公、何ぞこれを取らんや?誠に昭義と同心して、曠然として図を改めば、上は君臣の義を失わず、下は子孫の計と為るべし。』」

——『新唐書・王武俊伝』

この説得に対し、王武俊は「我は虜人なり。然れども尚ほ百姓を撫でるを知る。天子は固より殺人を務めて天下を安んずるに非ず」と応じ、帰順を決意した。

その後、賈林の仲介により、李抱真と王武俊は南宮・経城にそれぞれ駐屯し、両軍はわずか十里の距離で対峙した。李抱真は自ら数騎のみで王武俊の陣営に赴き、その誠意に感動した王武俊は「此の身、既に公に死を許す」と誓い、二人は義兄弟の契りを交わした。

「即ち数騎を以て馳せ入りて武俊に見ゆ。曰く、『泚・希烈、帝号を争って窃む。滔は貝州を攻む。其の志、皆天下に自ら肆うを欲す。足下、既に競い雄長する能わず、九葉の天子を捨てて反虜に臣従せんや?且つ詔書罪己す。是れ禹・湯の心なり。方上、暴露して播越す。公、自ら安んずる能わんや?』と。因りて武俊を抱き、涕下して頬を交わす。武俊亦感泣し、左右皆泣す。」

——『新唐書・李抱真伝』

こうして成徳軍と昭義軍は完全に連携し、貝州へ向けて進軍した。

二、戦闘の真相:史料の矛盾と統合的再構成

(一)第一段階:正面会戦

戦闘は二段階に分かれる。第一段階は辰の刻(午前7~9時)から未の刻(午後1~3時)にかけての正面衝突である。

朱滔は馬実・盧南史に回鶻・契丹兵を率いさせ、王武俊は趙珍に精鋭騎兵三百を率いさせてこれに対抗。李抱真の部将・王虔休は掎角の勢いで援護した。

「武俊、其の子士清と共に自ら回鶻・契丹部落を当つ。両軍既に合し、鼓噪震地す。回鶻、捷を恃みて武俊の陣を穿つ。武俊、騎に乗じて馬を勒めて動かず。回鶻の引退を俟ちて、因りてこれを薄む。回鶻、勢い止むこと能わず。武俊父子、馬を縦り急撃し、回鶻三百騎を獲る。滔、陣乱れて東走す。」

——『旧唐書・朱滔伝』

一方、『奉天録』には「武俊、流矢に中たる」とあり、戦闘は決して一方的ではなかった。

『新唐書・王武俊伝』が最も詳細で、王武俊は伏兵五百を林中に隠し、回鶻騎兵が突撃して陣を抜けた瞬間、背後から急襲をかけた。この奇策により回鶻は崩れ、朱滔本隊も動揺して敗走した。

この段階で、王武俊の戦術的優位が決定的だった。特に、回鶻という朱滔の最大の戦力を見事に無力化した点が勝敗を分けた。

(二)第二段階:追撃と殲滅

第一段階終了後、王武俊は流矢の傷を受けながらも、李抱真にこう進言した。

「士少衰、盍く騎を以て師を済わん。巣穴覆すべし。」

——『新唐書・王武俊伝』

『奉天録』にも同趣旨の記述があり、「軍勢両衰、各々騎士を請う」とある。李抱真は馬軍兵馬使・来皓に一万騎を率いさせ、朱滔の本営を急襲。同時に、行軍司馬・盧玄真(『奉天録』では「盧元真」)が別働隊で後方を襲撃した。

朱滔は前後から攻められ、軍は大混乱に陥る。王武俊は隘路に伏兵を置き、退却する朱滔軍を挟撃した。

「武俊、隘に於いて邀う。滔、大敗し、免る者八千人。」

——『新唐書・王武俊伝』

「三十万の突騎、霜剣に随いて星の如く飛ぶ。数百里の浮屍、長平の冤気あり。」

——『奉天録』巻二

結局、朱滔は残兵千人を率いて幽州へ逃亡。途中、瀛州で敗戦の責任を取らせ、蔡雄・楊布らを処刑した。

「是の夜、滔、残衆千人を以て徳州に奔る。戈甲を委棄して山積す。滔、瀛州に至り、騎将蔡雄・楊布を殺す。」

——『旧唐書・朱滔伝』

三、戦後の帰結と歴史的意義

朱滔は幽州に帰還後、敗北の屈辱に耐えかね、「背癰(せきよう)」を発して死去した。

「朱滔、身を挺して幽州に奔る。天、渠魁を喪う。遂に背を発して死す。」

——『奉天録』巻二

一方、王武俊は功績を称えられ、幽州盧龍節度使を辞して恒州に還り、唐の信頼を回復した。

「武俊、班師して表して幽州盧龍節度使を譲る。許す。乃ち恒州を大都督府とし、武俊を長史とす。」

——『旧唐書・王武俊伝』

この戦いは、単なる軍事的勝利にとどまらず、河北諸鎮が再び唐の支配下に帰する契機となった。その鍵を握ったのは、王武俊と李抱真の信頼関係と、賈林という外交的知略の存在であった。

結語

史料の記述は一見矛盾するが、『旧唐書』が王武俊の個人的武勇を強調し、『奉天録』が戦闘全体の推移を重視し、『新唐書』が両者を統合的に記述している。これらを総合すれば、この戦いが「個人の英雄譚」ではなく、「戦略・外交・連携」によって成し遂げられた、唐中興の重要な転換点であったことが明らかとなる。


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