なぜ南唐は歴史上最も簡単に建国された政権だったのか?南唐はなぜ三代で滅んだのか?
南唐の建国は、権臣による簒奪という道を歩む者にとって、ほぼ完璧なモデルケースと言える。歴史上、これほど順風満帆に政権を簒奪した例は他に見当たらない。しかも南唐は「徐氏が楊氏を簒奪し、李氏が徐氏を簒奪する」という二重簒奪の構造を有しており、その過程も極めて円滑であった。まず楊行密の子孫(楊溥ら)は。
南唐の建国は、権臣による簒奪という道を歩む者にとって、ほぼ完璧なモデルケースと言える。歴史上、これほど順風満帆に政権を簒奪した例は他に見当たらない。しかも南唐は「徐氏が楊氏を簒奪し、李氏が徐氏を簒奪する」という二重簒奪の構造を有しており、その過程も極めて円滑であった。
まず楊行密の子孫(楊溥ら)は、ほとんど抵抗らしい抵抗を示さず、まるで首を洗って処断を待つが如くであった。『十国春秋・楊溥伝』には「溥性懦弱、政出群下、終為徐氏所制」と記されており、その無力さが窺える。徐温と張顥の間には一時的な権力闘争があったが(『資治通鑑』巻269)、それ以外に大きな混乱は見られなかった。
さらに、徐知誥(後の李昪)が徐氏の実権を掌握する過程も極めて容易であった。徐温は自らその養子・徐知誥に政権を委ね、嫡子・徐知訓の死後はほとんど制約を加えなかった。『南唐書・烈祖本紀』には「温素愛知誥、訓死後、益委政焉」とあり、その信頼ぶりが明らかである。徐知詢は政治的素人であり、自ら機会を逸して敗れた(『十国春秋・徐知詢伝』)。他の徐氏一族の多くもむしろ徐知誥を支持しており、簒奪への抵抗はほとんど存在しなかった。このように、南唐の建国は「得国最易」と評しても過言ではない。
国策の失敗:李昪から李煜へ
しかし、建国後の国策は一貫して失敗続きであった。
李昪(烈祖) の基本方針は徐温と同様、「保境安民」——すなわち国境を守り、民を安んじる——というものであった。『資治通鑑』巻281には「昪性節儉、勤於政事、鄰國有災不伐、有叛不納」と記され、当時の史家からは高く評価されている。しかし、この戦略は南唐の地政学的現実に合致していなかった。
南唐は富庶ではあるが、戦略的縦深が極めて薄く、江西は未開の地、淮南は北方の脅威に晒され、江南の核心地帯は呉越と目と鼻の先である。実際、後周の世宗が南征した際、呉越は即座に後周に呼応して出兵し(『旧五代史・世宗紀』)、南唐の敗北を決定づけた。この事実からも、南唐にとって呉越こそが最大の脅威であり、閩・楚を滅ぼすよりも呉越を先に制圧すべきであった。
李昪がもし楊行密が「揚州を棄て宣州に拠る」(『新五代史・楊行密伝』)ほどの決断力を持ち、国力を挙げて呉越を討伐していれば、肘腋(ちゅうえき)の患を除去し、その後の休養・発展も可能だったであろう。しかし李昪にはその覚悟がなく、機会を逸した。
李璟(元宗)の二重の失敗
李璟(元宗) は、保大十年(952年)以前の戦略は概ね妥当であった。閩・楚の内乱に乗じてこれを併合し、後晋・後漢の交代期には中原進出も試みた。もし李昪がこれを実行していれば、中原を制することは難しくとも、東南一帯を統一し、北方と対峙する体制を築けた可能性がある。
しかし李璟には二つの致命的欠陥があった。
第一に、執行力の欠如。閩・楚の征服後、いずれも有効な統治を確立できず、留従効は名ばかりの唐臣として自立し、劉言・周行逢らは完全に反旗を翻して南唐から離反した。『資治通鑑』巻291には「楚人復叛、唐不能制」とあり、その無能ぶりが露呈している。
第二に、応変力の欠如。外部に対しては極度に臆病で、劉知遠が汴京に入ると即座に北伐を中止し、淮北の要地すら奪取できなかった。内部に対しては逆に苛烈で、将帥が少しでも敗れれば罷免・流罪・処刑と、暴君のごとき振る舞いを見せた。『南唐書・元宗本紀』には「將帥小衄、輒加誅戮」とあり、人心離反の原因となった。
世宗の南征後、李璟の戦略は完全に崩壊した。後周に対し卑屈な降伏を繰り返し、実際には八州しか占領されていないのに、十四州を自ら献上した。さらに、自ら「皇帝」の号を捨て、「交泰」などの年号を廃して「江南国主」と称した(『資治通鑑』巻293)。これは南宋の高宗(趙構)ですらしなかった屈辱的行為である。
また、敗戦将校の家族を族誅し、降伏者に対しても容赦なく処罰するなど、全く「御下の道」を欠いていた。宋斉丘の粛清については一部史家が「奸臣を除いた」と評価するが(『十国春秋・宋斉丘伝』)、国家存亡の危機において、能力がありながら専横の傾向のない老臣を排除するのは明らかに誤りであった。
さらに、周→宋の交代期、淮南に動乱が起き、帰順の動きが見られた際、李璟はためらいなく北宋の「忠犬」となり、李重進を裏切って売却した(『宋史・李重進伝』)。これにより、南唐はもはや自立の可能性を完全に失った。
李煜(後主):中途半端な「忠犬」
李煜(後主) は、この「忠犬路線」をそのまま継承した。北宋が荊湖・後蜀・南漢・呉越を次々と併合するのを、ただ黙って見過ごした。実際、李璟が江北十四州を献上した後も、江南はすでに高度に開発されており、後蜀・南漢・南唐の三カ国は依然として連携の余地があった。北宋は北漢・契丹という北方の脅威を抱えており、三国が連合すれば、少なくとも一代は存続できた可能性がある。
しかし李煜は、まるで戦国末期の斉の如く、首を差し出して屠られるのを待つばかりであった。しかも、その「忠犬ぶり」も中途半端で、呉越の銭氏のように徹底的に身を委ねることもなく、最終的には北宋に翻意して一年以上も抵抗した。その結果、銭氏のような優遇措置も得られず、国破れて身も滅びた。『宋史・南唐世家』には「煜既降、猶懷異志、遂見誅」とあり、その愚かさが歴史に刻まれている。
結語
南唐は建国の容易さにおいて史上稀に見る成功例であるが、その後の三代にわたる国策は一貫して地政学的現実を無視し、機会を逸し、人心を失い、ついには自滅した。その教訓は、権力の獲得と維持は全く別物であることを、痛烈に示している。