蕭衍の北伐は本当に南朝の中興だったのか?梁武帝・蕭衍は北魏を倒したのか?
梁の武帝・蕭衍が普通末年から大通年間(526–530年頃)にかけて展開した一連の北伐は、南斉時代の旧領を回復するだけでなく、淮北地方にまで勢力を拡大し、南朝の中興を果たしたかのように見える。しかし、これはあくまでマクロな視点にすぎず、詳細に目を凝らせば、実情は「笑えない」どころか、むしろ「呆れ返る」ほどである。
梁の武帝・蕭衍が普通末年から大通年間(526–530年頃)にかけて展開した一連の北伐は、南斉時代の旧領を回復するだけでなく、淮北地方にまで勢力を拡大し、南朝の中興を果たしたかのように見える。しかし、これはあくまでマクロな視点にすぎず、詳細に目を凝らせば、実情は「笑えない」どころか、むしろ「呆れ返る」ほどである。
北伐の背景:北魏の崩壊
当時の北魏は、文字通り「四分五裂」の状態にあった。『魏書・食貨志』に曰く:
「盗賊日滋、征討不息、国用耗竭、預徵六年租調、猶不足、乃罷百官所給酒肉、又税入得人一銭、及邸店皆有税、百姓嗟怨。」
(盗賊が日増しに増え、征討が絶えず、国庫は枯渇し、六年分の租税を前納しても足りず、ついには百官への酒肉の支給を廃し、さらに一人あたり一銭の税を課し、邸宅や店舗にも課税したため、民衆は嘆き怨んだ。)
このように、北魏は財政破綻と内乱の渦中にあり、その支配は名ばかりとなっていた。
- 冀州以北:定州に楊津が孤立。
- 河東(山西):柔然の阿那瓌、爾朱栄、劉蠡升、陳双熾が割拠。
- 関西:雍州・華州のみが辛うじて維持。
- 河西・夏州:阿至羅や雑胡などの異民族勢力が支配。
このような混乱を背景に、蕭衍は五つの戦線から北伐を展開した:益州・雍州・義陽・寿陽・徐兗方面である。
一、益州方面:長期戦と虚栄
益州方面の戦闘は時間軸が長く、最初の行動は破六韓抜陵の蜂起(523年)と同年に行われた。『魏書・淳于誕伝』(列伝第四十九)に詳しい:
「時、衍益州刺史蕭淵猷、将樊文熾・蕭世澄等を遣わし、数万の衆を率い、小剣戍を囲む。益州刺史邴虬、子達をしてこれを拒がしむ。… 淳于誕、兵を率いて急馳し、月余にわたり対峙す。文熾、龍鬚山に柵を設けて帰路を防ぐ。誕、密かに勇士二百余人を募り、夜陰に乗じて山を登り、柵を襲う。火起これにより、煙炎天を覆う。賊、帰路を失い、連営震怖す。誕、諸軍を率いて鼓を鳴らし攻撃す。文熾大敗し、万計を俘斬し、世澄等十一人を擒す。」
この戦いでは、南梁軍は惨敗を喫し、蕭世澄は捕虜となった。北魏側は淳于誕の活躍により「面子」を保ったが、南梁の無謀な攻勢は、むしろ「誰にも勝てぬ北魏が、唯一勝てる相手が南梁」という皮肉を生んだ。
次に益州方面で戦闘が記録されるのは、大同元年(535年)、すでに東西魏に分裂した後である。『梁書・武帝紀第三』に曰く:
「十一月丁未、中衛将軍・特進・右光禄大夫徐勉卒す。壬戌、北梁州刺史蘭欽、漢中を攻めてこれを克つ。魏梁州刺史元羅、降る。」
この時点で、破六韓抜陵の蜂起からすでに12年が経過しており、南北の情勢は大きく変化していた。
二、雍州方面:膠着と敗北
雍州方面では、525年、蕭綱(後の簡文帝)が曹義宗を派遣し、順陽を攻撃。北魏の裴衍・王羆が武関より救援に赴き、一時は曹義宗を撃退したが、兵糧不足により戦況は悪化し、最終的に曹義宗が順陽を奪還した。
528年、魏の孝明帝(元詡)が母・胡太后に毒殺される直前、李洪が南陽の蛮族を扇動して反乱を起こす。これに乗じ、蕭衍は再び曹義宗を派遣し、新野で辛纂を包囲。辛纂はわずか二千の兵で城を守り抜いた。
同年10月、北魏の費穆が曹義宗を大破し、捕らえて洛陽に送った。『魏書』には「曹義宗、生擒さる」と記され、南梁の雍州方面の攻勢は完全に頓挫した。
三、義陽・寿陽方面:堰を築いての戦略
蕭衍は天監末年から浮山堰・荊山堰を築き、寿陽を水攻めにしようとした。普通7年(526年)、寿陽が水没寸前と聞くと、ただちに元樹・夏侯亶らを派遣して北伐を開始。魏の李崇は窮地に陥り、降伏せざるを得なかった。
さらに、司州刺史・夏侯夔が三関を攻撃。湛僧智が義陽で長期戦を展開し、魏国内の反乱勢力を扇動。結果、『梁書・武帝紀第三』に記されるように:
「魏郢州刺史元願達、義陽を以て内附す。北司州を置く。」
これは南梁にとって貴重な成果であった。
四、渦陽の戦い:史書の虚実
曹仲宗が陳慶之・韋放を率いて渦陽を攻めた際、『梁書』の列伝では「元昭が15万の大軍で救援に来た」「費穆と一年間対峙」「最終的に大勝」と華々しく描かれている。
しかし、『魏書』にはこの戦いに関する記録が一切存在しない。『梁書・武帝本紀』にも渦陽の戦いは登場しない。当時、西魏の蕭宝夤と元顥が合流しても兵力は12万歩兵+8千騎兵にすぎず、「15万」という数字は明らかに誇張である。
渦陽の戦い自体はあったであろうが、『陳慶之伝』『韋放伝』の描写は「小作文」として楽しむにとどめるべきであろう。
五、徐兗方面:裏切りと失敗
525年、魏の徐州刺史・元法僧が蕭衍に降伏。蕭衍は次男・蕭綜(実は東昏侯・蕭宝巻の子)を派遣して徐州を接収させたが、蕭綜が臨陣脱走して魏に降り、梁軍は大敗を喫した。
527年、成景俊が臨潼・竹邑を攻略。蘭欽が蕭城・厥固を攻め落とし、魏将・曹龍牙を斬る。戦線は彭城まで押し寄せたが、彭城攻略は失敗。蕭衍は再び寒山堰を築き、寿陽の前例を踏襲しようとした。
528年、爾朱栄が洛陽に入京。この混乱に乗じ、泰山太守・羊侃が南梁に降伏。蕭衍は王弁を派遣して琅琊を攻撃し、「羊侃救出作戦」を試みた。
ところが、『魏書・鹿悆伝』(列伝第六十七)にはこうある:
「蕭衍、将彭群・王弁を遣わし、七万の衆を率い琅邪を囲む。… 鹿悆、万余の兵を率い、これを大破し、群の首を斬り、俘馘二千余級。」
しかし、『梁書』には「彭群」という人物は登場せず、王弁の記録も極めて薄い。この戦いも、北魏側の誇張が含まれている可能性が高い。
なお、羊侃以外にも、番郡の続霊珍が梁の平北将軍・番郡刺史に任じられ、一万の兵で番城を攻撃。濮陽では劉挙が挙兵するなど、魏国内は完全に崩壊寸前であった。
結論:「中興」か、「ウロタマ」か?
戦線は寿陽から渦陽へ、三関から汝南へ、剣閣から漢中へと広がり、結果として南梁の版図は南斉を上回った。『梁書・武帝紀第三』にはこう記される:
「時、魏大乱。其の北海王元顥、臨淮王元彧、汝南王元悦、並びに来奔す。北青州刺史元世俊、南荊州刺史李志、亦た地を以て降る。」
確かに、梁武帝は「南朝を再び偉大にした」と言えるかもしれない。
しかし、その実態は——
- 南陽では曹義宗が捕虜に、
- 泰山では王弁が惨敗を喫し、
- 渦陽の勝利は史書の虚構に近く、
- 徐州では皇子が敵に寝返る始末。
こうした状況下で、陳慶之の北伐が過大評価されるのも無理はない。彼を除けば、南梁中後期の軍事行動は「拾い食いすらままならぬ」有様である。陳慶之の伝記を読めば、「少なくとも、これほどまでに醜くはない」と思えてくる——それが、南方史書が彼を神格化した真の理由なのだろう。