南唐の建国者・李昪は本当に唐の皇族の子孫だったのか?
南唐を語るにあたって、その建国者・李昪(徐知誥)を避けて通ることはできない。中国史上三百人余りの皇帝の中で、その生涯の伝奇性は間違いなく上位に位置する。ただし、その順位がどれほど高いかは、見る者の立場や価値観によって異なるだろう。唐の光化元年(898年)、淮南節度使・検校太傅・同中書門下平章事・弘農郡王・楊行密は濠州(こうしゅう。
南唐を語るにあたって、その建国者・李昪(徐知誥)を避けて通ることはできない。中国史上三百人余りの皇帝の中で、その生涯の伝奇性は間違いなく上位に位置する。ただし、その順位がどれほど高いかは、見る者の立場や価値観によって異なるだろう。
唐の光化元年(898年)、淮南節度使・検校太傅・同中書門下平章事・弘農郡王・楊行密(よう こうみつ)は濠州(こうしゅう、現・安徽省鳳陽県)を攻めた。『資治通鑑』巻二百六十にはこう記されている:
「行密為淮南節度使,有兼併之志,遂攻濠州。」
楊行密の肩書きの数々を見れば、彼が唐末における有力な藩鎮の一人であったことは明らかである。一方、濠州は当時さほど有名ではなかったが、四百年後、この地から一人の男が現れ、天下を揺るがすことになる。その名は朱元璋——明の太祖である。
興味深いことに、楊行密が濠州を落とした際、彼はもう一人の未来の皇帝と出会っている。その男は当時、わずか六歳の孤児で、寺に預けられていたが、寺も飢饉で養いきれず、路頭に迷っていた小沙弥だった。
『十国春秋』巻一には、この場面が次のように記されている:
「昪幼孤,依佛寺為沙彌。行密攻濠州,見而奇之,愛其姿容秀美,目有神采。」
戦場で無数の敵を斬ってきた楊行密も、その小沙弥の清らかな顔立ちと大きな瞳に心を奪われた。馬上から優しく尋ねたという:
「汝、何と申す?父母はいずこに?」
小沙弥は涙を流しながら答えた:
「我は李と申します。父は行方知らず、母は亡くなり、伯父も死にました。家もありません。」
楊行密はその姿に胸を痛め、即座にこの子を引き取り、実子同然に育てることを決意した。
この子は乱世に生まれ、両親を失いながらも、自らの姓「李」を忘れなかった。後に彼は「唐の太宗皇帝の子・呉王李恪(り こく)の十世孫である」と称するが、その出自については諸説ある。『南唐書』巻一にはこうある:
「昪自言唐室之裔,吳王恪之後也。」
しかし、その出自の真偽はともかく、彼が自らの出自を「李」姓に求めたことは、後の南唐建国の正統性を主張する上で極めて重要な意味を持った。
ところが、楊行密の実子・楊渥(よう あつ)はこの小沙弥を快く思わず、排除しようと画策した。『新五代史』巻六十一にはこう記される:
「昪為楊氏諸子所不容。」
だが、当時楊渥は十歳、小沙弥(後の李昪)は七歳に過ぎない。実際には、楊渥一人が敵意を抱いていたのである。人間の嫉妬心は、年齢を問わず醜悪なものである。
楊行密はやむなく、この子を自らの部将・徐温(じょ おん)に託す。これが李昪にとっての第二の恩人となる。
徐温の養子となった彼は「徐知誥(じょ ちこう)」と名乗り、徐家の李氏(徐温の妻)の慈愛に包まれて成長する。『十国春秋』にはこうある:
「溫妻李氏憐其孤弱,撫愛如己出。」
こうして、彼の心の傷は癒され、人格も涵養されていった。
一方、楊行密は江南一帯を平定し、天復二年(902年)、唐から「呉王」の位を授けられ、五代十国における「呉」の基礎を築く。『資治通鑑』巻二百六十五:
「以行密為吳王,呉之建國自此始。」
三年後、楊行密は死去し、長子・楊渥が跡を継ぐが、その暴政により、徐温と張顥(ちょう こう)の二人の補佐官が反旗を翻し、楊渥は暗殺される。
徐温は権力を掌握するが、すぐには王位を簒奪せず、楊行密の次男・楊隆演(よう りゅうえん)を傀儡として立て、自らは潤州(じゅんしゅう、現・江蘇省鎮江市)に拠点を移す。その代わり、長男・徐知訓(じょ ちくん)を広陵(こうりょう、現・揚州市)に置いて「監国」とする。
しかし、徐知訓は傲慢・暴虐・愚鈍の三拍子揃った人物で、呉王楊隆演を公然と侮辱し、将軍・朱瑾(しゅ きん)の妾を強姦するなど、人心を失っていた。『十国春秋』巻二:
「知訓驕橫無禮,數陵侮隆演,又烝瑾妾。」
朱瑾は怒り、宴席に徐知訓を招き、これを斬る。しかし、呉王楊隆演は恐怖のあまり逃げ出し、朱瑾は孤立無援のまま自刃する。
この混乱の中、徐知誥(後の李昪)が広陵に現れる。当時三十歳、『南唐書』にはこうある:
「知誥身長七尺,廣顙隆準,溫厚有謀。」
徐知誥は徐知訓とは対照的に、民を思いやる政治を行い、人心を掌握する。徐温もこれを黙認し、徐知誥は事実上の広陵の支配者となる。
やがて、徐温は死去。徐知誥は権力を完全に掌握し、昇州(現・南京市)を本拠として呉の実質的支配者となる。昇州は後に「金陵」と改称される。
天祐十六年(919年)、楊隆演は正式に「呉王」を称し、徐温を大丞相、徐知誥を尚書左僕射・参知政事兼知内外諸軍事に任ずる。しかし、楊隆演は長年の恐怖と抑圧の末、わずか23歳で死去する。『十国春秋』:
「隆演以憂卒,年二十三。」
その後、弟の楊溥(よう ほ)が後を継ぐが、これもまた傀儡に過ぎない。
昇元元年(937年)、ついに徐知誥は楊溥から禅譲を受け、皇帝に即位し、「斉(せい)」を国号とする。さらに二年後、彼は本姓「李」に復し、名を「昪」と改め、「大唐」を国号とする。これが「南唐」の始まりである。『資治通鑑』巻二百八十:
「知誥復姓李氏,更名昪,國號唐。」
彼は自らを「唐太宗の子・李恪の十世孫」と称したが、その出自については後世多くの疑問が呈されている。『新五代史』巻六十二:
「昪自云唐室之裔,然莫能考其實。」
しかし、彼の治世は安定と繁栄をもたらした。昇元七年(943年)に崩御するまで、李昪は「休兵息民」を国策とし、南方諸国との和睦を図りつつ、中原の動乱を待つ戦略を取った。
臨終の際、息子の李璟(り けい)に指を口に含ませ、強く噛み締めてこう言ったという:
「汝、南境を攻むるなかれ。蓄力して中原を窺え。」(『十国春秋』巻三)
しかし、李璟は父の遺訓を守らず、南閩・南楚を次々と攻め、一時的に版図を広げるも、国力を消耗し、周囲の敵を増やす結果となる。
その頃、中原では後周の柴栄(さい えい)が台頭していた。顕徳二年(955年)、柴栄は南唐討伐の詔を発し、自ら出征する。『資治通鑑』巻二百九十二には、その詔書の一節が記されている:
「李璟僭竊帝號,結連北虜,侵暴閩越,罪惡貫盈。」
二年余りの戦いの末、南唐は長江以北の領土をすべて失い、李璟は「南唐国主」として後周に臣従せざるを得なくなる。
その後、李璟の長男・李弘冀(り こうき)が叔父・李景遂(り けいずい)を殺害し、自らも間もなく死去。李璟は第六子・李從嘉(り じゅうか)——後の李煜(り ゆう)——を後継者に定める。
李煜は「千古の詞帝」と称される文芸的天才ではあったが、政治家としては無力だった。彼は宋に降伏し、南唐は滅亡する。
李昪が濠州の孤児から皇帝へと上り詰めた奇跡は、まさに「天命」の如くである。しかし、その子孫がその遺志を継げなかったことは、歴史の皮肉としか言いようがない。