唐の皇帝で太宗に次ぐのは誰?徳宗は本当に元和中興の基礎を築いたのか?
唐代の皇帝の中で、太宗(李世民)に比肩しうる者は、その後の諸帝の中に見当たらない。太宗を「天縦の英傑」と呼ぶならば、その下に続く皇帝群の中でも、天賦の才と政治的能力において最も優れた存在は、文宗・武宗をも凌ぐ憲宗(李純)であると私は考える。とりわけ、その政治家としての理性と自制心は、中国歴代の君主の中でも極めて稀有なものであった。
唐代の皇帝の中で、太宗(李世民)に比肩しうる者は、その後の諸帝の中に見当たらない。太宗を「天縦の英傑」と呼ぶならば、その下に続く皇帝群の中でも、天賦の才と政治的能力において最も優れた存在は、文宗・武宗をも凌ぐ憲宗(李純)であると私は考える。とりわけ、その政治家としての理性と自制心は、中国歴代の君主の中でも極めて稀有なものであった。
もし憲宗が元和年間(806–820)に藩鎮(はんちん)を削減するという大業を成し遂げていなかったならば、徳宗貞元末年(785–805)の藩鎮体制は、そのまま唐末の懿宗・僖宗期のような混乱と無秩序へと直結したであろう。実際、「元和中興」という成果が存在したからこそ、現代の研究者は徳宗朝の政治状況を振り返る際に、一種の「後知恵的楽観主義」に陥りがちである。すなわち、「すべてが中興のためにあった」という合理化ロジックによって、徳宗の政治行動を過度に正当化する傾向が見られる。
徳宗評価の逆転:結果論による歴史叙述
『資治通鑑』巻二百三十二には、徳宗についてこう記されている:
「猜忌刻薄、強明を以て自任し、正論に屈することを恥じ、奸諛に欺かれることを忘れたり。」
この評価は、徳宗晩年の政治姿勢を端的に示している。しかし、現代の歴史学においては、徳宗は「元和中興の基礎を築いた中唐の偉大な君主」として再評価されることが多い。この評価の転換は、既知の歴史的結果——すなわち憲宗による中興——に基づく「良好な予期」から生じたものであり、徳宗のすべての政治行動が合理的であったかのように描かれる傾向がある。例えば、憲宗が中央権威を回復できたのは、徳宗時代に整備された制度的基盤——特に財政制度——があったからだとされるが、この見方は慎重に検討すべきである。
貞元末年の藩鎮自立化と徳宗の姑息政策
徳宗は前期において宰相を厳しく粛清し、劉晏・楊炎・竇参らを次々と罷免・処刑した。後期には宰相を信用せず、自ら庶務を統括した。この行動自体は承平の世でも戦乱の世でも特段の問題とはならなかったが、問題は藩鎮に対する姿勢にあった。徳宗は藩鎮に対して極めて軟弱であり、貞元末年には河朔(かさく)三鎮に限らず、多くの非河朔藩鎮でも「父死子継」の自立化傾向が顕著となった。
『旧唐書』巻一百四十五には、貞元十六年(800年)の徐州節度使張建封の死後、その子張愔が旌節(しんせつ)を求め、徳宗が淮南節度使杜佑に命じて討伐させたが敗北し、「遂に愔を徐州留後と為す」とある。また、貞元十五年(799年)には山南西道節度使厳震が死の直前に宗族の厳礪を後継者として推薦し、徳宗はこれを承認している。
さらに、貞元十九年(803年)には陳許鎮(河南)で節度使上官涗の死後、その女婿田偁が上官の子を擁立しようとしたが、別の女婿王沛の告発により未遂に終わった。貞元二十年(804年)には禁軍将領李昇雲の子が「河朔の故事」に倣い父の地位を継ごうとし、昭義節度使李長栄の死後には盧従史が監軍と結託して節度使の地位を獲得した。安黄節度使伊慎は自ら朝覲し、その子を留後として政務を委ねた。そして、汴河の漕運を握る宣武鎮では、節度使韓弘が貞元十六年から元和十四年(819年)までの約二十年間、一度も朝廷に賦税を上納せず、朝覲もしなかった。
山南東道節度使于頔(うてき)に至っては、徳宗自らが選んだ人物であったが、赴任後は極めて専横となり、陳許が用兵中の隙を突いて南陽を占拠した。『新唐書』巻一百七十には、「頔自恣、軍政専断、朝廷不能制」と記されている。
憲宗即位時の政治情勢と削藩の試練
このような状況下で即位した憲宗にとって、政治情勢は極めて厳しかった。徳宗時代に定着した「行軍司馬を儲帥(ちょすい)とする」慣行——すなわち藩鎮内部で後継者が自然発生的に選ばれる伝統——は依然として強固に残っていた。西川の劉闢や浙西の李錡は、まさにこの姑息政策の産物であった。
劉闢は進士出身の文官であり、節度使韋臯の行軍司馬として、貞元以来の慣行に従い節度使職を継承しようとしたに過ぎない。しかし、陸揚(Lu Yang)の指摘にあるように、彼は宦官監軍および節度使府の幕僚・武将の黙認・協力の下で自立し、やむなく朝廷と対立する道を歩んだのである。一方、李錡は徳宗の寵臣であり、地方の権力を手放して単身で朝覲することを拒否した。
憲宗はこの二つの「反乱」を平定することで、中央の権威を再確立し、徳宗以来の藩鎮姑息政策に終止符を打った。その結果、藩鎮の忠誠を測る基準も根本的に変化した。従来は「地方で自然発生的に選ばれた後継者が朝廷に功績があるか」「表面的に恭順か」「地方の安定に寄与するか」などが判断材料であったが、憲宗以後は「朝廷が直接指名した人物を無条件に受け入れるかどうか」が唯一の基準となった。この原則は、黄巣の乱(874年)以前までほぼ維持された。これが「元和中興」の最大の政治的成果である。
削藩戦争の展開と内政改革
元和二年(807年)末、山南東道節度使于頔は憲宗の強硬姿勢を見て自ら朝覲した。元和四年(809年)、成徳節度使王士真の死後、その子王承宗が自立したのを機に、憲宗は河北藩鎮の世襲制を打破しようとした。しかし、建中年間(780–783)の削藩失敗の教訓を踏まえ、宰相裴垍(はいき)や学士李絳(りこう)は強く反対した。唯一賛成したのは宦官吐突承璀(ととつ しょうすい)と昭義節度使盧従史のみで、結局この作戦は中途半端に終わり、盧従史を奇襲して面目を保つにとどまった。
削藩戦争の中で最も長期かつ困難を極めたのは、淮西(かいせい)討伐戦(814–817)であった。元和九年(814年)九月、淮西節度使呉元済を討つ詔が出され、翌十年六月には宰相武元衡が刺客に暗殺された。同年十一月、振武兵二千を発して王承宗を討つが、財政・軍事の両面で極限状態に陥る。元和十一年(816年)八月、宰相韋貫之は「淮西・河北両線作戦は供餉の負担が重すぎる」として、王承宗討伐を一時中止し、呉元済専一討伐を主張したが、裴度と対立し罷免された。
元和十二年(817年)四月、朝廷は河北行営を一時停止し、淮西専一討伐に転じる。同年十月、宰相裴度が前線に赴き、李愬(りそう)が奇襲で蔡州に入り、呉元済を捕らえて献上した。淮西は平定された。
元和十三年(818年)七月、淄青(しせい)節度使李師道を討ち、十四年二月に平定。同年七月、二十年間朝覲しなかった宣武節度使韓弘が自ら入朝した。魏博節度使田弘正もすでに朝廷に帰順しており、成徳・幽州を除けば、藩鎮問題はほぼ解決された。元和十五年(820年)正月、憲宗崩御。同年十月、成徳節度使王承宗没。長慶元年(821年)三月、幽州節度使劉総が帰順する。もし憲宗がさらに二年長生きしていたならば、河朔三鎮の完全解決も可能だったかもしれない。
内廷・外廷の統合と宰相人事
徳宗時代には、天子の私的諮問機関として翰林学士が台頭し、宦官が官僚化する傾向が強まった。これに対し、憲宗は「翰林学士承旨」を設置して学士間の対立を防ぎ、さらに「枢密使」を置くことで、宦官・翰林学士・外廷官僚の三者の関係を調和させた。
また、宰相と大鎮節度使を交互に任用する「宰相回翔制度」を確立し、財政機関(戸部・度支・塩鉄)を宰相の下位執行機関とすることで、徳宗時代の「宰相と財臣の対立」を解消した。これにより、内外一体の統治秩序が構築された。
宰相人事においても、憲宗は卓越した識人眼を示した。杜黄裳(とこうしょう)、武元衡、李吉甫(りきっぷ)、李絳、裴度といった有能かつ志を同じくする人物を次々と登用し、削藩という国家的大業を遂行した。これは、徳宗の「小圈子佞幸政治」とは対照的である。憲宗朝にはいわゆる「党争」は存在せず、宰相間の意見対立はむしろ建設的かつ穏健なものであった。
例えば、黄河の氾濫で受降城が崩壊した際、李吉甫は天徳故城への移転を提案したが、李絳と戸部侍郎盧坦は「受降城は張仁願が築き、虜の要衝を扼し、水草豊かにして守備に利あり。河患を避けて二三里退くは可なり。万代の安寧を捨てて一時の省費を図るべからず」と反論した(『資治通鑑』巻二百三十八)。憲宗は最終的に李吉甫の案を採用したが、これは財政的制約によるやむを得ぬ選択であり、両論の合理性を理解していた証左でもある。
また、魏博節度使田季安の死後、李吉甫は武力討伐を主張したが、李絳は「軍中人心未定なるを伺うべし」として静観を勧めた。果たして田興(後の田弘正)が自立し、朝廷に帰順した。李吉甫は「即時任命は軽率」としたが、李絳は「主動的に旄節(ぼうせつ)を与えて主導権を握るべき」と主張し、憲宗はこれに従った。さらに、李絳は「魏博六州の帰順は王化の及ばざる地を再び朝廷に帰す大業なり。禁中銭百五十万緡を下賜すべし」と進言し、これも採用された(『資治通鑑』巻二百三十九)。
憲宗の人間性とその限界
憲宗は決して完璧な君主ではなかった。時に宦官を庇護することもあり、五坊使楊朝汶(よう ちょうぶん)が無実の民を拷問し、千人近くを拘束した際、宰相裴度が「用兵は小事、五坊使の暴虐は京師を乱す」と諫言すると、憲宗は「汝が故に、朕は宰相に顔向けできぬ!」と羞恥の念を示し、楊朝汶を処刑した(『資治通鑑』巻二百四十)。
また、韓愈が仏骨迎請を諫じて潮州に左遷された際、その謝罪の上表を読んで「愈は大いに朕を愛す。朕豈(あに)知らずや!」と述べ、再起用を検討したという逸話も残る(『旧唐書』巻一百六十)。しかし、柳宗元・劉禹錫・元稹・白居易ら同時代の文人は、いずれも仕途多難であり、理性を重んじる政治家と激情に満ちた文人の相性の悪さが窺える。
晩年、憲宗は財臣皇甫鎛(こうほ はく)・程異らを重用し、裴度・崔群らを罷免し、宮殿の増築や丹薬服用に走った。これは十四年間の削藩戦争という極限的ストレスからの一種の反動であり、むしろ「人間らしさ」を示すものとも言える。
徳宗の「貢献」をめぐる誤解
最後に、徳宗の「貢献」について一言。徳宗が実施した両税法が、憲宗の財政基盤を支えたという点は妥当である。しかし、「徳宗が藩鎮から上貢させた内庫蓄財が元和中興の物質的基礎となった」という見解は、歴史的誤謬である。
国家財政は年度単位の循環的システムであり、皇帝の内庫(私的財産)とは別次元のものである。内庫の蓄積が翌年の軍費や行政費に直接充てられることは、制度上も現実的にも極めて限定的である。雍正帝の死後の国庫蓄財が乾隆帝の盛世を支えたという類似の議論と同様、これは「結果論的幻想」にすぎない。
国家の正常な運営は、安定的かつ予測可能な歳入・歳出の枠組みに依拠するものであり、一時的な内庫の蓄えに依存することはあり得ない。したがって、「徳宗の蓄財が憲宗の中興を可能にした」という主張は、財政制度の本質を理解していない誤解に基づくものである。
結語
憲宗李純は、天賦の才と卓越した政治感覚を備えた稀有な君主であった。彼がいなければ、唐は徳宗晩年の藩鎮支配の延長線上で、早晩崩壊していたであろう。元和中興は、単なる軍事的成功ではなく、制度的・政治的・人事的諸改革を通じて実現された「統治秩序の再構築」であった。その業績は、後世の歴史家が「中興の英主」と称えるに足るものである。