唐武宗はなぜ「会昌の廃仏」を断行したのか?唐武宗は本当に無力だったのか?
「賊を討ちたき心ありといえども、天を回す力なし」——中晩唐の諸帝は、たとえ才覚に恵まれていても、当時の国家構造上の根本的問題ゆえに、大いなる作為を果たし得なかった。その典型が唐武宗(在位:840–846年)である。『唐闕史』(唐・高彦休撰)によれば、武宗の即位自体がまさに偶然の産物であった。
「賊を討ちたき心ありといえども、天を回す力なし」——中晩唐の諸帝は、たとえ才覚に恵まれていても、当時の国家構造上の根本的問題ゆえに、大いなる作為を果たし得なかった。その典型が唐武宗(在位:840–846年)である。
『唐闕史』(唐・高彦休撰)によれば、武宗の即位自体がまさに偶然の産物であった。当時、神策軍を掌握していた宦官・中尉は安王(文宗の弟)を擁立しようとしていたが、その命令が伝達される際、「大なる者を立てるべし(立大者)」とだけ伝えられたため、兵士たちは安王と穎王(後の武宗。実際は安王より年少)のどちらが「大」かを知らず、混乱した。両王の邸宅が隣接していたことも混乱を助長した。
このとき、穎王の側室である歌妓が機転を利かせて叫んだ。「大なる者とは穎王なり!先帝(文宗)がその魁偉な体躯ゆえに『大王』とお呼びになっていたのは、この方のことです!」
この一言に兵士たちは納得し、穎王を即座に宮中に擁立してしまった。
『唐闕史』原文:
「中貴主禁掖者、以安王大行親弟、既賢且長、遂起左右神策軍及飛龍・羽林・驍騎数千衆、即藩邸奉迎安王。中貴遥呼曰:『迎大者!迎大者!』……王夫人窃聞之、擁髻褰裙走出、矯言曰:『大者穎王也。大家左右以王魁梧頎長、皆呼為大王……』……衆惑其語、遂扶上馬、戈甲霜擁、至少陽院。」
このようにして即位した武宗は、初めから宦官勢力の傀儡皇帝であった。後に彼は自らの腹心である淮南節度使・李徳裕を宰相に抜擢し、徐々に権力を回復したが、神策軍を掌握する宦官たちの支配からはついに完全には脱却できなかった。
そもそも安史の乱後、唐の皇帝は武将を全く信用しなくなった。郭子儀のような忠臣でさえ、回鶻・吐蕃との戦いの最中に「すでに死去した」という噂が流れるほどであった。こうした状況下で、中央軍を宦官に委ねることは、やむを得ざる選択だった。宦官が兵変を起こして皇帝を擁立することはあっても、自ら帝位を簒奪することはあり得なかったからである。この構造的問題は、宋代に至って文官が軍を統括する制度が確立されて、ようやく解消された。
武宗もまた、外患に対しては一定の成果を挙げている。安史の乱後、回鶻は唐の北辺を頻繁に侵し、長安においても唐の官僚を公然と侮辱していた。武宗は、李陵の末裔を称する北方の黠戛斯(かつかし)部族と連携し、南北から回鶻を挟撃する戦略を採った。
『旧唐書・回鶻伝』原文:
「初、黠戛斯破回鶻、得太和公主。黠戛斯自称李陵之後、与国同姓、遂令達干十人送公主至塞上。……幽州節度使張仲武遣弟仲至率兵大破那頡之衆、全収七千帳、殺戮収擒老小近九万人。」
この作戦により、幽州節度使・張仲武が回鶻の烏介可汗を捕らえて処刑し、漠北は一時的に平定された。また、山西西南部に割拠していた昭義鎮も討伐に成功した。
しかし、府兵制がすでに崩壊していたため、中央軍の戦闘力は限界があった。武宗の成功は、外交的策略——黠戛斯との連携と、河北三鎮(河朔三鎮)の藩鎮勢力の利用——に依拠したものだった。そのため、彼は河北三鎮に対して「世襲を許す」という妥協を余儀なくされ、黠戛斯の首長を「王」に冊封するなど、一時的な安定を図ったにすぎなかった。藩鎮割拠と北辺の脅威は、表面的には緩和されたものの、根本的解決には至らなかったのである。
内政面においても武宗は積極的に施策を展開した。会昌年間(841–846)、彼は全国の寺院を大規模に廃止し(いわゆる「会昌の廃仏」)、免税特権を持つ僧侶を還俗させて農民とし、国家の税収基盤を回復させようとした。さらに、寺院にあった金・銀・銅・鉄製の仏像や鐘を没収し、貨幣鋳造に充てることで、一般民衆の納税負担を軽減しようとした。
『旧唐書・武宗本紀』原文:
「天下廃寺、銅像・鐘磬委塩鉄使鑄銭、其鉄像委本州鑄為農器、金・銀・鍮石等像銷付度支。……僧尼不合隷祠部、請隷鴻臚寺。」
だが、武宗は自らを即位させた神策軍の構造的腐敗を是正することはできなかった。すでにその前から、辺境の兵士は糧食も不足し「兵役は苦役なり」と嘆いていたのに対し、長安に駐屯する神策軍は厚遇されていた。有力者の子弟が実際には兵役に就かず、名ばかりで給与を受ける「空名兵」が横行していた。
『新唐書・兵志』原文:
「時辺兵衣饟多不贍、而戍卒屯防、薬茗蔬醤之給最厚。諸将務為詭辞、請遥隷神策軍、稟賜遂贏旧三倍……其軍乃至十五万。」
武宗自身が神策軍の支持によって帝位に就いた以上、その既得権益を侵害することはできず、むしろ彼らをさらに優遇することで自らの政権基盤を固めざるを得なかった。
会昌六年(846年)、武宗は崩御した。すると、再び神策軍の兵士たちが動き、武宗が最も嫌っていた叔父・光王を擁立した。これが後の唐宣宗である。宣宗の治世「大中の暫治」は一時的な安定をもたらしたものの、それは王朝衰退の「回光返照」にすぎず、唐の没落はもはや避けがたいものとなった。