なぜ唐の皇帝は次々と失敗したのか?粛宗から哀帝までの21人の功罪を古籍で検証
玄宗李隆基の第三子。才器は凡庸ながら、非常時に帝位を継ぎ、国家存亡の危機に直面した。『資治通鑑』巻二百一十八に曰く:「七月甲子、上即皇帝位于靈武。」この即位こそ、人心を収攬し、安史の乱における反撃の起点となった。また、郭子儀・李光弼らの活躍により、長安・洛陽の二京を相次いで回復した功績は、否定しがたい。
粛宗李亨(在位:756–762年)
玄宗李隆基の第三子。才器は凡庸ながら、非常時に帝位を継ぎ、国家存亡の危機に直面した。『資治通鑑』巻二百一十八に曰く:「七月甲子、上即皇帝位于靈武。」この即位こそ、人心を収攬し、安史の乱における反撃の起点となった。また、郭子儀・李光弼らの活躍により、長安・洛陽の二京を相次いで回復した功績は、否定しがたい。
しかしながら、その後の戦略判断は著しく誤った。特に乾元二年(759年)の鄴城の戦いにおける大敗は、『旧唐書・粛宗本紀』に「九節度之師潰於鄴城」と記され、その第一の責任は李亨自身にある。さらに、建寧王李倓を賜死させたことは、史思明の再反乱を招き、河北三鎮の半独立状態を固定化させる遠因となった。『資治通鑑』巻二百二十一に「倓性忠果、為上所忌、遂賜死」とあり、その政治的短慮が如実に現れている。結局、李亨の治世は、危機を凌いだ功績と、その後の失政によって、功過相半するものと言わざるを得ない。
代宗李豫(在位:762–779年)
李亨の長子。廟号は本来「世宗」を称すべきであったが、後世の混乱により「代宗」となった(南明時代に誤って「世宗」を他帝に与えた逸話あり)。彼は玄宗・粛宗が残した極度の混乱を、着実に修復した。『旧唐書・代宗本紀』曰く:「終平大難、再造王室」。安史の乱を最終的に鎮圧し、郭子儀を用いて吐蕃・僕固懐恩の侵攻を退けた。内政面では、吏治の整備と漕運の復興に尽力し、後の徳宗・憲宗の時代への基盤を築いた。
河北三鎮が事実上の独立状態に陥ったのは事実だが、『新唐書・藩鎮伝』に「雖擅兵一方、猶奉天子之名」とあるように、形式上は唐室への服属を維持した点で、代宗の統治は極めて現実的かつ有効であった。宦官の重用についても、中晩唐期の政情を考えれば、むしろ政権維持のための必要悪と評すべきであろう。もし宦官勢力がなければ、唐王朝は黄巣・朱温の時代まで存続できなかっただろう。
徳宗李適(在位:779–805年)
李豫の長子。中唐以降、最後の「大唐再興」を志した皇帝である。初期には四鎮の乱(建中之乱)において過度な中央集権を図り、『資治通鑑』巻二百二十八に「涇原兵変、天子出奔奉天」と記される如く、奉天の難に至る。しかし、李泌・李晟・馬燧・渾瑊らの忠臣の活躍により、国家崩壊を免れた。
晩年には宦官の地位をさらに高め、神策軍を皇帝直属の精鋭軍として確立した。これは一見、宦官専横の嚆矢のように見えるが、同時に財政・軍事の基盤を整え、後の「元和中興」への物的蓄積を成し遂げた。徳宗は、優れた面と失政が混在するが、全体として「唐帝の平均線」と評するのが妥当であろう。彼より優れた帝は明確な功績を持ち、劣る帝は見るに堪えない。
順宗李誦(在位:805年)
李適の長子。太子時代は賢明と評されたが、即位直後に「永貞革新」を推進しようとした。しかし、『資治通鑑』巻二百三十六に「順宗風疾、不能視事」とあり、即位数か月で病に倒れ、実権は宦官に掌握された。ロシア史の表現を借りれば、「皇帝は脳卒中で倒れた」のである。改革は頓挫し、その志は息子・憲宗に引き継がれることとなった。
憲宗李純(在位:805–820年)
李誦の長子。「元和中興」を成し遂げた中唐最大の英主である。『旧唐書・憲宗本紀』に「自古中興之主、未有如憲宗者」と評され、河北三鎮以外の藩鎮をほぼ再統合し、唐室の威令を一時的に回復した。その統治は、「天子の威望+藩鎮間の牽制+江南の財賦」という三本柱によって支えられ、この体制は黄巣の乱まで約60年間維持された。
全体の唐史を俯瞰すれば、太宗に次ぐ評価を与えても過言ではない。彼こそ、中唐の決定的転換点を創出した皇帝である。
穆宗李恒(在位:820–824年)
李純の第三子。『旧唐書』に「好遊宴、不親政事」と記され、治世は極めて無為無策であった。河北三鎮は再び反乱を起こし、元和中興の成果は一気に失われた。在位わずか四年、何ら有為の政策を残さず、無能の典型と評される。
敬宗李湛(在位:824–827年)
李恒の長子。父と同様、遊興に耽り、朝政を顧みず。『資治通鑑』巻二百四十三に「夜獵毬戯、不視朝」とあり、結局、宦官・神策軍の「継承法」(実質的なクーデター)により暗殺された。
文宗李昂(在位:827–840年)
李恒の次子。即位後、宮人を削減し、節約に努めた。宦官打倒を企て「甘露の変」を起こすも失敗。『新唐書』に「自此、天子受制於宦者」と記され、以後、完全に神策軍の傀儡と化した。
武宗李炎(在位:840–846年)
李恒の第五子。文宗の死後、宦官により即位させられた。在位中、藩鎮を討伐し、回鶻を破り、冗官を削減し、仏教を弾圧(会昌廃仏)して「会昌の中興」を実現した。『旧唐書・武宗本紀』に「威令復振、中外清晏」と評される。しかし、丹薬を服用して若死にし、その背後に宦官の陰謀があったか否かは、今も謎である。
宣宗李忱(在位:846–859年)
李純の第十三子。宦官により「愚鈍な叔父」として擁立されたが、実際は深謀遠慮の君主であった。牛李党争を終結させ、倹約政治を推し進め、吐蕃を破って河西回廊を回復し、「大中之治」と称された。『資治通鑑』巻二百四十九に「大中之政、有貞観之風」とある。
しかし筆者の見解では、その治世は「元和」「会昌」の遺産と、吐蕃内乱という幸運に支えられた面が大きい。河西回復は「天が落とした餡子」(天上掉餡餅)とも言える。功績は確かにあるが、「小太宗」と称するのはやや過大評価であろう。
懿宗李漼(在位:859–873年)
李忱の長子。奢侈耽楽、政務を怠った。『新唐書』に「奢侈日甚、政事日非」と記される。元和以来の蓄積も底をつき、唐は本格的な衰退期に入った。咸通九年(868年)、桂林で発生した龐勲の乱は、「唐の滅亡は桂林に始まる」(始亡於桂林)と後世に評され、王朝崩壊の序曲となった。
僖宗李儇(在位:873–888年)
李漼の第五子。幼少にして即位し、馬球に熱中。宦官・田令孜が朝政を専断した。在位中、王仙芝・黄巣の乱が勃発し、『資治通鑑』巻二百五十四に「天下大亂、唐室遂傾」と記される如く、唐は事実上崩壊した。李克用・朱温らが黄巣を討ったものの、藩鎮は完全に独立し、東漢末年の如き状況となった。さらに王重栄の乱により、長安を二度も失うという前代未聞の屈辱を味わった。
昭宗李曄(在位:888–904年)
李漼の第七子。励精図治を志し、再起を図ったが、黄巣の乱後の唐はもはや手の施しようがなかった。『旧唐書』に「志大才疎、終為朱全忠所制」とある。朱温(朱全忠)により洛陽へ遷都され、やがて弑殺された。これにより、唐王朝の最後の希望は断たれた。
哀帝李柷(在位:904–907年)
李曄の第九子。朱温が形式的に擁立した傀儡皇帝。即位三年にして廃され、毒殺された。これにより、289年にわたる唐の国祚はついに断絶した。
附記:五代の後唐(李克用・李存勗ら)は唐の後継を称したが、これは「擬制養子」の風習に基づくものであり、正統な唐帝二十一帝には含まれない。
初唐・盛唐期皇帝評
高祖李淵(在位:618–626年)
李虎の孫、李昞の子。統一王朝の開祖としては、最も容易な条件下で帝位に就いた。晋陽起兵から長安入城まで、その功績は『大唐創業起居注』に詳しい。しかし、長安入城後は消極的となり、『資治通鑑』巻百八十九に「高祖性寛仁、而無大略」と評される。統一を成し遂げたのは、実質的には次子・李世民の功である。
太宗李世民(在位:626–649年)
李淵の次子。武徳朝の天策上将、貞観朝の「天可汗」。唐の統一と全盛を築いた最大の功労者。筆者は、中国史上の帝王として、漢高祖劉邦と並ぶ双璧と評する。その威望は後世まで及び、唐の存続を支える精神的支柱となった。大唐の実体は、太宗の功績そのものである。
高宗李治(在位:649–683年)
李世民の第九子。貞観の遺産を引き継ぎ、永徽の治で頂点を極めた。しかし、中期以降は病弱となり、武后(則天武后)に政権を委ねた。『資治通鑑』巻二百二に「高宗晚節、委政武后、刑賞僭濫」とあり、これにより政治風潮は腐敗し、後の混乱の遠因となった。
則天武曌(在位:690–705年)
李治の皇后。太后として摂政していれば、李顕・李旦の兄弟を制することは容易だった。しかし帝位を僭称したため、『旧唐書』に「任酷吏、屠忠良、海内騷然」と記される如く、政治は恐怖政治と化し、西域諸国との関係も悪化した。もし孫の玄宗が「開元の治」で撥乱反正しなければ、唐は中華正統王朝としての地位を失っていただろう。
中宗李顕(在位:684年、705–710年)
李治の第七子。第一次即位時は母・武后に廃され、第二次即位後も韋后・安楽公主に弄ばれ、『資治通鑑』巻二百九に「昏懦無能、政出多門」と酷評される。本来、廟号「中宗」は中興の主に与えるものだが、彼のためこの称号は価値を失った。
少帝李重茂(在位:710年)
李顕の子。即位わずか半月で廃され、完全な傀儡。
睿宗李旦(在位:684–690年、710–712年)
李治の第八子。第一次在位時は武后の傀儡。第二次在位時、唐復興の要となり、禁軍を掌握して玄宗への禅譲を実現した。『旧唐書』に「睿宗知幾、推位讓賢」と評され、「睿」の廟号はまさに相応しい。
玄宗李隆基(在位:712–756年)
李旦の第三子。韋后・太平公主を討ち、開元の治で唐を再び全盛期に導いた功績は偉大である。『資治通鑑』巻二百一十二に「開元之際、海内富庶、行者萬里不持寸兵」とある。しかし、晩年は驕慢となり、李林甫・楊国忠を重用し、安禄山を過信した。『旧唐書・玄宗本紀』に「寵祿山、委以重兵、遂成滔天之禍」と記される。さらに潼関の戦いで戦略を誤り、長安陥落を招いた。この一連の失政が、唐を中晩唐の衰退期へと引きずり込んだ。
結語
唐の興亡は、皇帝個人の資質と時代の構造的制約が複雑に絡み合った結果である。太宗・憲宗のような英主が現れても、制度的・軍事的・経済的限界が積み重なり、最終的には不可逆的な崩壊を迎えた。その歴史的教訓は、今日においても深い示唆を与えてくれる。