なぜ唐の皇帝は国家を再建できなかったのか?安史の乱後の唐を立て直したのは誰か?
国家を崩壊させるのは、実は極めて容易である。晋の恵帝のような愚か者でさえ、それを成し遂げてしまったほどだ。しかし、一度崩壊した国家を再び立て直すことは、文字通り「登天より難しい」。卓越した才覚がなければ、到底成し得ない。たとえ真に優れた人物であっても、その成功は極めて稀である。
国家を崩壊させるのは、実は極めて容易である。晋の恵帝のような愚か者でさえ、それを成し遂げてしまったほどだ。
しかし、一度崩壊した国家を再び立て直すことは、文字通り「登天より難しい」。卓越した才覚がなければ、到底成し得ない。たとえ真に優れた人物であっても、その成功は極めて稀である。
国家が太平の世にあるとき、皇帝が何もしなくとも過ちを犯すことはない。ただ飲食し、遊興に耽ればよい。国政は、やりたい者に任せればよい。その成果がどうあれ、非難を受けるのはその臣下であって、皇帝ではない。
例えば、漢の昭帝と成帝はその典型である。二人とも「手を抜く皇帝」(甩手掌柜)であった。霍光が善政を敷けば、人々は霍光を称え、王鳳が失政を犯せば、人々は王鳳を罵る。皇帝自身は一切の責を負わず、せいぜい私生活の逸話——昭帝の後宮では宮女が袴を穿いていたとか、成帝が趙飛燕を寵愛したとか——が後世の批判材料となる程度である。
ゆえに、太平の時代において皇帝の責務は極めて軽い。もし皇帝が責任を負いたくなく、罵名も避けたいのであれば、統治を望む者に任せて、自らは後宮に隠れていればよい。世の中には、皇帝の憂いを解き、難局を担うことを望む者が、常に多数いるのである。
だが、国家を「良くする」ことは、極めて困難である。ましてや、既に崩壊した国家を再建するのは、さらに困難を極める。
「天下之政既去,非命世之雄才,不能復取之矣!」
——『晋書』
この一言こそ、安史の乱後の唐の諸帝の奮闘と限界を端的に示している。
肅宗(そくそう)
「比平王之遷洛,我則英雄;論元帝之渡江,彼誠麼麽。」
——『旧唐書』
私はこの評価に深く同意する。周の平王東遷後、周王室は傀儡と化したが、肅宗は安史の乱後も唐の中央政権を維持し、全国の大半を支配下に置いた。これは明らかに東周より遥かに優れている。
晋の元帝は中原を失い、江南に偏安したが、肅宗は長安・洛陽を奪還し、叛軍を河北に押し戻した。この点において、元帝は明らかに及ばない。
代宗(だいそう)
「代宗之時,餘孽猶在,平亂守成,蓋亦中材之主也!」
——『新唐書』
この評価は極めて妥当である。代宗は積極的な改革者ではなかったが、内外の制約の中で「守成」を果たした。彼の人事は一見巧みだが、実際は綱渡りのようであり、しばしば失敗した。例えば、吐蕃が長安を占領した際、郭子儀がいなければ、代宗は第二の周平王となっていたであろう。
李光弼、僕固懐恩、郭子儀といった名将が代宗朝にいたにもかかわらず、政局は常に不安定だった。それでも、何とか危機を乗り越えた点において、「中材の主」という評は決して過言ではない。
徳宗(とくそう)
「徳宗在籓齒胄之年,曾為統帥;及出震承乾之日,頗負經綸。……一旦徳音掃地,愁嘆連甍,果致五盗僭擬於天王,二朱憑陵於宗社。……知人則哲,其若是乎!貞元之辰,吾道窮矣。」
——『旧唐書』
徳宗は気性が急で、人の過ちを許さず、猜疑心が強く、危機の際には人材をうまく用いるが、平穏になると再び独断専行に走る。奉天に包囲された際、臣下が奮起して叛乱を鎮圧したが、都に帰還すると再び政務を自ら握り、陸贄や李晟ら忠臣を遠ざけた。
もし彼が陸贄や李晟、李抱真らに国政を委ねていたなら、唐の運命はまた違ったものになっただろう。
順宗(じゅんそう)
「惜乎寝疾践祚,近習弄権;而能伝政元良,克昌運祚,賢哉!」
——『旧唐書』
病床にあって即位し、側近が権力を弄んだが、太子(憲宗)に政権を円滑に譲渡できた点で、賢明であった。
憲宗(けんそう)
「貞元失馭,群盗箕踞。章武赫斯,削平嘯聚。我有宰衡,耀徳観兵。元和之政,聞於頌声。」
——『旧唐書』
私見では、憲宗こそ唐の再興を果たした唯一の皇帝である。
「忽驚元和十二載,重見天宝承平時。」
安史の乱後、藩鎮が跋扈し、中央権威は地に落ちていた。しかし憲宗は、河北を含む全国の藩鎮を服従させ、唐の統一を一時的に回復した。これは光武帝以来の偉業であり、晋元帝・宋高宗・唐肅宗らを遥かに凌駕するものである。
「天下之政既去,非命世之雄才,不能復取之矣!」
——『晋書』
憲宗こそ、まさに「命世の雄才」であった。
穆宗・敬宗
「穆、敬昏童失徳,以其立位不久,故天下未至於敗乱,而敬宗卒及其身,是豈有討賊之志哉!」
——『新唐書』
昏庸にして志なく、評すに値せず。
文宗(ぶんそう)
「文宗恭儉儒雅,出於天惟……然其仁而少断,承父兄之弊,宦官撓権,制之不得其術……甘露之事,禍及忠良,不勝冤憤,飲恨而已。」
——『新唐書』
善良な人物ではあったが、乱世を治める器ではなかった。彼には「非常の時」に必要な決断力・手腕・胆力が欠けていた。
武宗(ぶそう)
「昭粛以孤立維城,副兹当璧。而能雄謀勇断,振已去之威権;運策励精,抜非常之俊傑……足以章武出師之跡,継元和戡乱之功。」
——『旧唐書』
文宗の失政により宦官が専横を極めた末、武宗は孤立無援の状況から即位した。しかし彼は「非常の時」にふさわしい「非常の人」であった。
宦官を抑えて権力を回復し、李徳裕という不世出の宰相を登用。潞州の劉稹を討ち、再び唐の威令を振るった。彼の治世は、まさに元和の遺志を継ぐものであった。
宣宗(せんそう)
「大中臨馭,一之日権豪斂跡,二之日奸臣畏法,三之日閽寺詟気……十余年間,頌声載路。……四海承平,百職修挙,中外無粃政,府庫有余資,年穀屡登,封疆無擾。」
——『旧唐書』
憲宗朝は「群星の時代」、武宗朝は「李徳裕との二人芝居」、そして宣宗朝は「一人舞台」であった。だが、その治世は晩唐において稀有な平穏期であり、唐人にとって最後の安寧の時代であった。それは、まさに「嵐の前の静けさ」だった。
懿宗・僖宗
「懿、僖当唐政之始衰,而以昏庸相繼……其乱遂不可復支,蓋亦天人之会歟!」
——『新唐書』
懿宗は庸主、僖宗は昏童。二人の治世に、黄巣の乱が勃発し、唐は不可逆の崩壊へと向かう。
昭宗(しょうそう)
「自古亡国,未必皆愚庸暴虐之君也……昭宗为人明隽,初亦有志於興復……而用匪其人,徒以益乱。」
——『新唐書』
彼は決して愚かではなかった。むしろ志高く、才覚もあった。しかし、時勢はすでに傾き、彼が「命世の雄才」ではなかったことは否めない。
「天下之政既去,非命世之雄才,不能復取之矣!」
——『晋書』
昭宗は、その「雄才」ではなかったのである。
哀帝(あいてい)
「哀帝之時,政由凶族……逆取順守,仁道已窮。暴則短祚,義則延洪。」
——『旧唐書』
彼にはただ同情を寄せるしかない。彼の時代、唐はすでに朱全忠の傀儡と化しており、皇帝としての実権は皆無であった。
結語
国家を崩すのは易く、再建するのは極めて難し。歴史は、その真実を唐の諸帝を通じて、痛切に示している。
「天下の政既に去らば、命世の雄才なくしては、再びこれを取ること能わず」——この一言こそ、乱世の帝王が直面する宿命の核心である。