なぜ唐王朝は河朔三鎮を一度平定したのに、再び反乱を許してしまったのか?
実は、元和末年(820年頃)、唐王朝は一時的に河朔三鎮(魏博・成徳・盧龍)を平定していた。『資治通鑑』巻二百四十には、「元和十三年、魏博節度使田弘正入朝、河朔三鎮悉く服属す」と記され、一見して天下が再び統一されたかに見えた。しかし、その安定は長続きせず、ほどなく三鎮は再び反旗を翻した。
実は、元和末年(820年頃)、唐王朝は一時的に河朔三鎮(魏博・成徳・盧龍)を平定していた。『資治通鑑』巻二百四十には、「元和十三年、魏博節度使田弘正入朝、河朔三鎮悉く服属す」と記され、一見して天下が再び統一されたかに見えた。しかし、その安定は長続きせず、ほどなく三鎮は再び反旗を翻した。なぜ、この「勝利の果実」は守られ得なかったのか。
一、洛陽陥落後の「順民」処分と民心の離反
安史の乱の末期、安禄山・史思明の叛軍が洛陽を陥落させると、多くの朝臣や宮人が捕らえられ、やむなく叛軍に従う者も少なくなかった。後に唐軍が洛陽を奪還した際、これらの「順民」をどう処遇すべきかが朝廷内で論争となった。一部は「情状酌量すべし」と主張したが、結局、朝廷は「叛逆に与した者は皆誅すべし」として、多数を処刑した。
この措置は、忠義を尽くして戦死した将士への義理を果たすものではあったが、同時に、占領地域の民心を大きく損ねた。
洛陽既復、順民悉く誅せらる。由是、河北之人、帰順の志を絶つ。
——『旧唐書』巻一百一十六
河朔の民はこう考えるようになった。「たとえ朝廷に帰順しても、過去の汚点を咎められて処罰される。それならば、いっそ叛軍に徹した方がましだ」と。こうして、「一日叛臣、終身叛臣」という心理が定着していったのである。
二、田弘正と牛元翼――忠臣の悲劇と朝廷の無力
唐憲宗の治世下、魏博節度使・田弘正は率先して朝廷に帰順し、自ら成徳を討つ軍を率いた。『新唐書』巻一百四十八には、「弘正忠義、率先して朝廷に帰し、成徳を伐つ」と記され、その功績は顕著であった。さらに、彼は親兵を率いて成徳を鎮守した。しかし、憲宗崩御後、朝廷は田弘正の親衛部隊への給養を打ち切った。やむなく田は親兵を魏博に帰還させたが、間もなく成徳の王庭湊に暗殺された。
また、魏博出身ながら朝廷側に与した牛元翼も同様の運命を辿った。魏博が再び反乱を起こすと、牛の家族は人質として拘束された。朝廷はこれをどうすべきか。鎮圧するには兵も財も人材も不足していた。国庫は空しく、有能な将帥も乏しく、短期間での制圧は不可能だった。やむなく朝廷は「綏靖策」を採らざるを得なかった。
その結果、忠義を尽くした田弘正の仇は討たれず、その子・田布は自刃しても無駄だった。牛元翼没後、その家族は魏博節度使・史憲誠(田布を自殺に追い込んだ張本人でもある)によって皆殺しにされた。朝廷は王庭湊に対して何の制裁も加えられず、逆にその子・王元奎に公主を嫁がせるという屈辱的な措置を取った(『資治通鑑』巻二百四十二)。
このような事態を目の当たりにして、河朔の忠臣たちは何を思うだろうか。「朝廷に従っても、報われず、むしろ身を滅ぼすだけではないか」と。忠誠心は、報われてこそ持続するものである。
三、「名ばかりの帰順」――李載義の例とその限界
もちろん、朝廷に従って栄達した節度使もいた。たとえば幽州節度使・李載義は、率先して朝廷に帰順し、高位の爵位を授けられ、子孫も厚遇された(『旧唐書』巻一百八十一)。しかし、問題はその帰順が「実質的な統合」をもたらしたかどうかである。
李載義の幽州は、名目上は朝廷の号令に従ったものの、実際には節度使の支配構造や地方の政治生態系は一切変わらなかった。これはまさに「殺人放火受招安(殺人・放火をしておいて、後で朝廷に招安される)」という形にすぎず、「改土帰流(地方の自治を廃して中央直轄とする)」とは程遠いものだった。
このような「功名を狙った帰順」は、かえって他の節度使に誤ったシグナルを送った。「騒げば騒ぐほど、朝廷は優遇する」と。この構図は、現代にもどこか似た事例がある――が、それはここでは伏せておく(読者諸氏は察しがつくであろう)。
結語:中央の実力こそが秩序の鍵
結局のところ、中央政権が地方を統制できるかどうかは、その「実力」にかかっている。財力・兵力・人材・そして政治的統一が揃えば、忠臣を守り、逆臣を罰することができる。そうなれば、自然と忠誠者が増え、反逆者は減る。
しかし、当時の唐王朝はその条件を満たしていなかった。牛李党争が政界を二分し、宦官が皇権を操り、元和の治の成果も長続きしなかった。唐憲宗がようやく藩鎮を平定した直後、宦官・陳弘志(※注:原文「陳洪志」は『資治通鑑』などでは「陳弘志」と記される)に弑逆され、その跡を継いだ穆宗は暗愚の君と評された(『新唐書』巻七)。このような中央の混乱下で、地方が朝廷を畏敬し続けるはずもない。
確かに、唐王朝には「正統性」「財力」「名分」があった。しかし、「団結一致」は口で言うほど簡単ではない。国運が衰える時期には、かえって「団結を促す政策」が分裂を深める。これはまさに「気数」、あるいは「国運の尽き」なのであろう。