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河朔三鎮はなぜ唐の中央から独立し続けられたのか?牙兵とは何か?

河朔三鎮(魏博・成徳・盧龍)が唐中央から長期的に離反し続けた一因として、その地の官僚の腐敗度が中央より遥かに低く、かつ税収が「転移支払(transfer payment)」として中央に吸い上げられなかったことが挙げられる。そのため、河朔三鎮の民衆はむしろ自らの軍閥支配者(「軍頭」)に対して強い支持を示していたのである。

龍の歩み龍の歩み

河朔三鎮(魏博・成徳・盧龍)が唐中央から長期的に離反し続けた一因として、その地の官僚の腐敗度が中央より遥かに低く、かつ税収が「転移支払(transfer payment)」として中央に吸い上げられなかったことが挙げられる。そのため、河朔三鎮の民衆はむしろ自らの軍閥支配者(「軍頭」)に対して強い支持を示していたのである。

もちろん、河朔三鎮の節度使が贅沢を望まなかったわけではない。むしろ、そうできなかったのである。なぜなら、彼らを取り巻く「牙兵」(親衛兵・精鋭兵)の勢力があまりにも強大だったため、節度使が私腹を肥やそうとすれば、たちまち牙兵が反乱を起こしてその地位を奪ってしまうからである。

中唐の節度使の一人はかつて、「節度使たる者は、虎の背に乗ってこれを制するが如し。常に恐れ慄き、薄氷を踏むが如し」と述べている(『資治通鑑』巻237、貞元十六年条)。

この比喩は、河朔三鎮における節度使の立場の不安定さを端的に示している。

一方、唐中央の直轄下にある藩鎮では、節度使たちは「多費やしても少費やしても、いずれにせよ我が金にあらず」(「費多費少、横豊非吾金」)といった態度で、享楽に溺れていた。これは『新唐書』巻168「陸贄伝」に見られる批判精神と通底するものである。

近代の研究によれば、河朔三鎮の住民の平均寿命は当時の唐全域で最も高く、その経済発展度は揚州に匹敵し、場合によってはそれを上回っていたともされる(参考:浜口重国『唐代藩鎮の研究』)。

河朔三鎮の特異性は、節度使を中心とする集権体制が成立しなかった点にある。むしろ、そこにはある種の「軍事的民主主義」的色彩が見られ、ヨーロッパ中世の封建貴族制に類似した構造を呈していた。節度使は各州の刺史や軍将を直接支配できず、逆に各州の軍将は自州の兵を節度使の命令なくして動かすことができた。ただし、対外戦争など節度使の命令がある場合には、各州軍将もこれに従って兵を動員した。

「大一統」史観をいったん脇に置けば、むしろ河朔三鎮のような権力分散型の軍鎮の方が、唐中央の直轄地よりも民衆にとって暮らしやすい状況であったことが浮かび上がる。

例えば貞元二十年(804年)、関中地方に大旱魃が発生した際、京兆尹(首都長官)の李実は唐徳宗に対し、「今年は雖(いえど)も旱(ひでり)なりといえども、穀田は甚(はなは)だ良し」と虚偽の報告をした(『資治通鑑』巻236)。

その結果、朝廷は租税の減免措置を取らず、民衆は家屋を解体して瓦を売り、さらには田畑の青苗(未熟の穀物)までも売却して租税を賄わざるを得なかった。

このような事態は、河朔三鎮では到底起こり得なかった。なぜなら、河朔では文官どころか、節度使自身が軍事以外の目的で民衆を苦しめようものなら、牙兵が即座に兵変を起こすからである。

総じて言えば、河朔三鎮が唐中央から長期的に遊離し得た最大の理由は、軍閥支配者たちが自らの領内を比較的よく統治していたことにあり、特に中央直轄地域との対比を通じて、「外敵(=中央)に対する連帯意識」——すなわち「同仇敵愾」の雰囲気を容易に醸成できた点にある。


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