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安史の乱で一族46人が戦死した僕固懐恩、なぜ最後は反乱を起こした?

「僕固懐恩は、驕兵悍将(きょうへいかんしょう)なり。朝廷を眼中に置かぬその性質こそ、彼の悲劇的結末を決定づけたのである。」胡人(異民族)出身の将軍・僕固懐恩(ぼこ かいおん)は、安史の乱(755–763年)という八年にわたる大戦乱において、一族四十六人が国のために戦死した。

龍の歩み龍の歩み

「僕固懐恩は、驕兵悍将(きょうへいかんしょう)なり。朝廷を眼中に置かぬその性質こそ、彼の悲劇的結末を決定づけたのである。」

胡人(異民族)出身の将軍・僕固懐恩(ぼこ かいおん)は、安史の乱(755–763年)という八年にわたる大戦乱において、一族四十六人が国のために戦死した。さらには、回鶻(ウイグル)との同盟を固めるため、自らの二人の娘を遠く塞外へ嫁がせ、その援軍を得て李唐王朝の乱平定に貢献した。

『旧唐書』巻一二一〈僕固懐恩伝〉に曰く:

「懐恩一族、戦死者四十六人。」

また、その子・僕固玢(ぼこ ひん)が叛軍と戦い敗れて投降したが、後に脱出して帰還した際、懐恩は軍律を正すため、自らの手で息子を処刑した。

「玢敗績、為賊所獲。後得間帰、懐恩斬之以徇。」(『旧唐書』)

この八年間、懐恩とその子・僕固瑒(ぼこ よう)は常に先鋒として奮戦し、「三軍に冠たり」と称された。彼は安史の乱のほぼすべての大規模戦役に参加し、赫々(かっかく)たる戦功を挙げた。

特に762年、安史の乱の終盤において、懐恩は朔方節度使・河北副元帥として大軍を率い、洛陽を奪還。史朝義(し ちょうぎ)の主力を破り、首級六万、捕虜二万余を挙げた。

その後、北上して叛軍を追撃し、史朝義は窮地に陥り自害。范陽(はんよう)一帯の叛軍は次々と城を献上し、七年二ヶ月にわたる安史の乱はついに終結した

代宗皇帝(李豫)はその功を称え、懐恩の肖像を凌煙閣(りょうえんかく)に掲げた。

「詔令凌煙閣画其像。」(『旧唐書』)

このように、懐恩は戦功卓絶、一族忠烈にして、どの王朝においても重用されるべき名将であった。

ところが、乱平後、彼は唐に反旗を翻し、遂には異郷の地で客死するという悲劇的最期を遂げた。

一体なぜ、これほど忠誠を尽くした将が、反逆の道を歩んだのか?

その原因は、懐恩自身の「驕兵悍将」としての性格にもあるが、根本は安史の乱が残した「後遺症」——すなわち、朝廷の武将への猜疑心と、宦官による軍政干渉という構造的問題にある。

懐恩が反乱に至るまでの経緯

回鶻との関係と辛雲京との対立

安史の乱末期、史朝義は長安攻略のため回鶻と連絡し、登里可汗(とうりかがん)に「長安陥落後、府庫の財宝をすべて与える」と約束した。利に敏い回鶻はこれに応じ、十万の大軍を率いて南下した。

このとき、玄宗・粛宗はすでに崩御し、代宗が即位したばかりで政情不安。代宗は慌てて使節を派遣し、大量の金銀を携えて「労軍」(慰労の名目で賄賂)を試みたが、回鶻は無視して進軍を続けた。

そこで代宗は、回鶻可汗の義理の岳父である僕固懐恩に交渉を命じた。懐恩は鉄勒(てつろく)部族出身で、唐と回鶻の間の重要な仲介者でもあった。

だが懐恩は内心、この任務を忌避していた。なぜなら、回鶻軍は「盟友」の名ばかりで、実際には略奪・殺戮を繰り返し、民衆はその害に苦しんでいたからだ。

代宗はこれを察し、「免死鉄券(ひんし てっけん:死刑免除の証書)」を与え、信任を示した。懐恩はやむなく北上し、登里可汗を説得。回鶻は史朝義との同盟を破棄し、逆に唐軍と共に戦うことを約束した。

ただし条件として、「洛陽を奪還後、三日間の略奪を許す」ことだった。朝廷は渋々これを承諾。洛陽は「売られた」のである。

戦後、回鶻軍は約束通り洛陽を略奪し北帰したが、その途上でも諸州を襲い、地方官が接待を怠ったとして殺害するなど、横暴を極めた。

この時、河東節度使・辛雲京(しん うんけい)が登場する。彼は太原(たいげん)を守備しており、回鶻を「敵」と見なし、城門を閉ざして一切の接触を拒否した。

乱後、懐恩が回鶻を送還する途中、再び太原を通過しようとしたが、辛雲京は再び門を閉ざした。回鶻は太原だけは手出しできず、唯一の「敗北」を喫した。

懐恩はこれに激怒し、「河北副元帥たる我が面目を潰された」と感じ、皇帝に辛雲京を弾劾する上奏を行った。

しかし、代宗は返答しなかった。なぜなら、回鶻の横暴を知る代宗は、辛雲京の行動を内心支持していたからである。

これに腹を立てた懐恩は、自軍を太原周辺に展開し、南面から太原を半包囲した。太原は孤立し、北・西は遊牧地帯、東は河北四鎮(かつての叛軍地帯)、南は懐恩軍——まさに絶体絶命の状況となった。

河北四鎮の「養寇自重」——百年の禍根

ここで、懐恩の最大の政治的誤算——河北四鎮の処遇問題に触れる必要がある。

史朝義自害後、叛将たちは次々と降伏した。例えば:

  • 薛嵩(せっ すう)は相・衛・洺・邢の四州を、
  • 張忠志(ちょう ちゅうし)は恒・趙・深・定・易の五州を、

それぞれ李抱玉(り ほうぎょく)、辛雲京に降伏した。

ところが、懐恩は直ちに彼らに命じて、「即座に撤退せよ」と命じた。そして自ら上奏し、降伏した叛将たちをそのまま節度使として留任させることを請願した。

「懐恩奏請、降将を旧職に留めよ。」(『新唐書』)

これは「養寇自重(ようこうじちょう)」——すなわち、敵を温存して自らの地位を保つ策略であった。

安史の乱以来、唐の皇帝は武将を極度に猜疑し、郭子儀や李光弼ですら宦官の讒言により兵権を剥奪された。懐恩もまた、自らの身の安全を図るため、河北四鎮を「味方」にしておきたかったのである。

だが、この判断が唐中後期の藩鎮割拠の嚆矢(こうし)となった。河北四鎮は百年にわたり朝廷に従わず、度々反乱を起こし、唐の統治を蝕んだ。

もし当初、唐軍が四鎮を直接占領し、降将を長安に移して虚職に就かせていたなら、このような百年の禍は避けられたであろう。

この点において、懐恩は「功臣」であると同時に、「罪人」でもあった。

監軍・駱奉先と「馬を隠す」事件

辛雲京は懐恩を「潜在的反逆者」と見なし、警戒を強めていた。そんな折、監軍宦官・駱奉先(らく ほうせん)が河東を視察に来た。

辛雲京は駱奉先を盛大にもてなし、密かにこう告げた:

「懐恩、回鶻と密約し、近日中に反乱を起こさんとす。」

駱奉先はこれを真に受け、懐恩の駐屯地・汾州(ふんしゅう)に向かう。

かつて二人は義兄弟の契りを交わしていたが、今や懐恩は郡王・副元帥、駱奉先はただの宦官——地位の差は歴然としていた。

懐恩の母は駱奉先を謁見し、こう言った:

「汝、我が子と兄弟の契りを結びし者なり。今や辛雲京に親しくして、両面(りょうめん)ならずや?然れども、前事は問わじ。今より母子兄弟如初(にょしょ)とすべし。」(『旧唐書』)

駱奉先は顔色を失った。

その後の酒宴で、懐恩は舞を披露し、駱奉先は厚く贈り物をした。懐恩は「お返しができぬ」と思い、翌日の端午節を一緒に過ごそうと、駱奉先の馬をこっそり隠した

だが駱奉先は、「自分が殺される」と思い込み、夜中に城壁を乗り越えて逃走した。

追っ手が現れ、「馬をお返しに参りました」と言うまで、彼は死を覚悟していた。

長安に帰った駱奉先は、即座に「懐恩、反乱の兆あり」と上奏。

「酒酣(しゅかん)、懐恩舞う。奉先、厚く幣を納す。懐恩、未だ酬(むく)いざるに、奉先亟(いそ)ぎ辞す。懐恩、即ち左右をしてその馬を匿(かく)す。奉先、図(はかりごと)せらるるを疑い、夜に乗じて遁(のが)る。奉先還り、具(ことごと)く懐恩の反状を奏す。」(『新唐書』)

一方、懐恩も自ら弁明の上奏を送ったが、代宗は「両者を宥めよ」として、事態を棚上げにした。

「六つの罪」と朝廷への痛烈な批判

しかし間もなく、李抱玉が懐恩に決定的な打撃を与えた。

懐恩が李抱玉の領内を通過した際、李は贈り物をした。懐恩も礼として返礼したが、李抱玉はそれを朝廷に献上し、「懐恩、私的に諸将と結託す」と密告した。

「懐恩の潞(ろ)を過ぐるに、李抱玉、幣馬を贈る。懐恩、これに答す。俄(やがて)抱玉、表して懐恩、私に結ぶ所ありとす。」(『新唐書』)

これに激怒した懐恩は、代宗に「六つの罪」を列挙する上奏を送った。その内容は:

  1. 同羅の乱を平定したこと
  2. 負けた息子を処刑したこと
  3. 娘を和親として回鶻に嫁がせたこと
  4. 自らと子・瑒が先鋒として戦い続けたこと
  5. 河北四鎮の降将を宥め、乱を鎮めたこと
  6. 回鶻を説得し、乱後には自ら送還したこと

——これらはすべて「罪」ではなく、明らかに功績の列挙であり、皮肉を込めた抗議であった。

さらに彼は、こう痛烈に批判した:

「子儀(郭子儀)はすでに猜疑(さいぎ)せられ、臣もまた毀謗(きぼう)せらる。弓蔵(きゅうぞう)鳥尽(ちょうじん)、兎死(とし)犬烹(けんぽう)。臣、昔はこれを非とせり、今方(まさに)その実を知る。
陛下、もし矯詞(ぎょうし:偽りの言葉)を必ず信じ給うならば、指鹿為馬(しろくいば:趙高の故事)と何ぞ異なる。」(『旧唐書』)

これは、宦官・魚朝恩らが「鹿を指して馬という」ように、事実をねじ曲げているという痛烈な非難である。

最後の機会と決別

代宗は宰相・裴遵慶(はい じゅんけい)を派遣し、懐恩の真意を探らせた。裴は「長安に参朝せよ」と促した。

懐恩は当初承諾したが、副将・范志成(はん しせい)が強く反対:

「郭子儀・李光弼の例を見よ。功臣は必ずや猜忌され、身を滅ぼす。」

懐恩は翻意し、自らも、息子も送らなかった。これにより、朝廷は「懐恩、謀反の意あり」と断定した。

その後、懐恩は遂に辛雲京の太原を攻撃。これは、皇帝の許可なく友軍を攻める行為——明白な反逆であった。

600年後の明の藍玉(らん ぎょく)が喜峰関を強攻したのと同様、驕兵悍将の典型である。

最期と評価

その後、吐蕃が長安を占領。代宗が逃亡中、顔真卿(がん しんけい)は「今こそ懐恩を召して吐蕃を討たしむべし」と進言したが、代宗は「反乱を恐れる」と拒否。

吐蕃退去後、代宗は再び懐恩召還を検討したが、顔真卿はこう諫めた:

「今さら召せば、猜疑を招くのみ。郭子儀を遣わし、兵を接収せよ。」

郭子儀が北上すると、懐恩軍は次々と離反。息子・瑒は部下に殺され、首を郭子儀に献上された。

母は懐恩を「逆臣」と罵り、刀を抜いて追った。懐恩は逃げ、霊武(れいぶ)に拠って吐蕃・回鶻と連合し、再び唐を攻めたが、軍中にて病死。享年不明。

「懐恩、遂に霊武に奔り、吐蕃・回鶻を引き入れて寇す。未だ至らざるに、道中に病没す。」(『新唐書』)

結論:悲劇の本質

僕固懐恩の反逆は、単なる「驕り」だけではなかった。

彼の性格——「剛直にして上を犯す(剛覚犯上)」(『旧唐書』)——は確かにある。だが、安史の乱後の唐王朝は、武将を信じる余裕を失っていた

宦官が監軍となり、戦勝すれば己の功とし、敗れれば将を陥れる。郭子儀・李光弼ですら危うい立場に置かれた時代に、懐恩が「自衛」のため河北四鎮を温存し、やがて反乱に走ったのは、時代の必然とも言える

もし太宗(李世民)の時代なら、彼は必ずや重用され、忠臣として名を残したであろう。

しかし代宗の時代——信任なき時代において、功臣は「逆臣」に成り果てた。

故に、僕固懐恩の悲劇は、個人の過ちではなく、時代の悲劇なのである。


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