安史の乱を平定した僕固懐恩は、なぜ最後に反逆者とされたのか?
安史の乱を平定するにあたり、僕固懐恩(ぼっこ かいおん)の功績は、郭子儀(かく しい)・李光弼(り こうひつ)に次いで第三位に挙げられるべきである。香積寺の戦いにおいて、官軍と叛軍は正面から激突した。叛軍は精鋭の一隊を伏兵として東側に隠し、好機を窺っていたが、これを僕固懐恩が察知し、全滅させた。
安史の乱を平定するにあたり、僕固懐恩(ぼっこ かいおん)の功績は、郭子儀(かく しい)・李光弼(り こうひつ)に次いで第三位に挙げられるべきである。
香積寺の戦いにおいて、官軍と叛軍は正面から激突した。叛軍は精鋭の一隊を伏兵として東側に隠し、好機を窺っていたが、これを僕固懐恩が察知し、全滅させた。『資治通鑑』巻二百二十に曰く:
「懐恩率精騎突出、東面伏兵悉斬之。賊氣大沮。」
この一撃により叛軍の士気は大きく挫かれ、官軍はこの大勝利を契機に西京・長安を奪還したのである。
宝応元年(762年)四月、粛宗崩御し、代宗が即位。同年十月、朝廷は雍王李適(り てき)を天下兵馬元帥、朔方節度副使・僕固懐恩を副元帥として、叛軍に対する最終決戦を命じた。
昭覚寺の戦いでは、唐軍四十万が叛軍十五万を圧倒し、十万を討ち取り、二万を捕虜とした。『旧唐書』巻一二一に記す:
「懐恩追朝義至衛州、大破之。河北諸鎮聞風皆降。」
史朝義は軽騎数百を率いて東へ逃走したが、懐恩はこれを追撃し、衛州で再び撃破。その後も援軍を次々に撃退した。河北の有力藩鎮――薛嵩(せっ すう)、張忠志(ちょう ちゅうし)、李宝臣(り ほうしん)、田承嗣(でん しょうじょ)、李懐仙(り かいせん)らは、すでに大勢が去ったと見て、次々と朝廷に帰順した。
史朝義が本拠地の范陽に逃げ帰ると、そこもすでに朝廷に降伏しており、城門を閉ざされた。やむなく東北へ向かい、契丹への亡命を図るが、途中で唐軍の追撃を受け、自ら木に縊れて果てた。
こうして、八年にわたる安史の乱はついに終結した。
朝廷は功績に応じて論功行賞し、僕固懐恩は大寧郡王に封ぜられ、後に左僕射兼中書令、単于・鎮北大都護、朔方節度使を兼ねた。
しかし、乱の終結とともに新たな不安が生まれた。代宗は密かに自問した。
「この大乱は、胡人を任じた故か?武将を信頼しすぎた故か?あるいは両方か?」
三大功臣の内、郭子儀は漢人、李光弼は契丹人、僕固懐恩は鉄勒(てきろく)人――果たして、この二人はまだ信頼に値するのか?
「竜を屠る者が、自ら竜とならぬか?」
河北諸鎮が帰順後、皆が懐恩のもとへ詣で、「旧職に留まらんことを願う」と懇願した。懐恩はこれを便宜上、朝廷に奏上し、諸鎮の現職維持を認めさせた。朝廷は「河北が静かなら、それでよい」として承諾した。
だが、これを目撃した者の中には、「懐恩は大功を立て、回紇(ういぐる)とも親しく、今や河北諸鎮にも恩を売っている。これは何か企みがあるに違いない」と噂する者もいた。流言はたちまち長安に広まり、宮中にまで届いた。
宦官は君主の心を最もよく読み取る存在である。彼らは寸功も立てず高位にありながら、唯一の拠り所は皇帝の信任のみ。ゆえに、皇帝のわずかな疑念を十倍にも膨らませて忠誠を示すのが常であった。
皇帝もまた、宦官と武将の対立を歓迎した。互いに牽制させることで、自らはその中で利を得る――それが帝王の術であった。
史朝義が窮地に陥った際、回紇の登里可汗(とうりかがん)に「唐はもう滅びる。今こそ共に中原を攻めよ」と誘った。登里可汗はこれに応じ、十万の精兵を率いて関中に侵入した。朝廷は大いに動揺した。
代宗は急ぎ使者を遣わし、和睦を請うたが、登里可汗は「わが義父・僕固懐恩に会いたい」と答えた。実は懐恩は、国のために二人の娘を遠く異域に嫁がせており、登里可汗もその一人の婿であった。
懐恩は当初、この時期に回紇の可汗に会うのは極めて危険だと拒否した。しかし代宗は「朕が汝を疑うことはない」と誓い、さらに免死鉄券(めんしごうけん)まで与えたため、やむなく単身で赴き、可汗を説得して唐側に引き入れた。
戦いに勝利した後、代宗は懐恩に可汗の送還を命じた。ところが、太原に差し掛かった際、太原尹・辛雲京(しん うんけい)は城門を閉ざして一切応対しなかった。回紇がかつて太原を掠奪したことがあり、辛雲京は深く恨んでいたのである。
辛雲京はさらに宦官・駱奉仙(らく ほうせん)に、「懐恩は回紇と通謀し、反乱を企てている」と密告した。駱奉仙はこれを誇張して代宗に奏上した。
一方、懐恩も自らの無実を訴える上表を送った。その中にはこうある(『旧唐書』巻一二一より):
「臣一家、安史の乱以来、戦死四十六人、二女は遠嫁異域。ただ国に報いる心のみあり。もし罪ありとせば、河曲を平定し、河北を帰順させ、回紇を説得し、一族挙げて戦場に赴いたことなり。これほどの罪あれば、死をもって贖うべきなり。何をか弁解せんや!
かつて郭子儀を排し、今また臣を誣(そし)る。陛下、もし此の誣りを信じ給うなら、是れまさに『鹿を指して馬と為す』(指鹿為馬)なり。
臣、長安に赴きて自ら陳述せんと欲すれど、将士らが許さず。願わくは使者を遣わし、臣を京師に召されんことを。」
彼は当初、回紇との会見を恐れていた。まさにその懸念が現実となったのだ。
代宗は黄門侍郎・裴遵慶(はい じゅんけい)を遣わし、懐恩を慰撫させた。懐恩は使者の足を抱き、涙を流して嘆いた。裴遵慶は「陛下はまだ汝を信じている。共に長安へ行かん」と誘った。
懐恩は一度承諾したが、副将・范志誠(はん しせい)が止めた:
「行かざれ。李光弼は廃され、来瑱(らい てん)は誣りに遭い処された。前車の覆轍を忘れるな。」
懐恩もまた、長安に行けば口を開く機会もなく、宦官の手で殺されると悟った。やむなく「諸務多忙につき、後日参上する」と言い訳したが、裴遵慶は「行かざれば、その責は汝が負う」と告げた。
懐恩はさらに、息子を代わりに送ろうとしたが、結局それも取りやめた。心中鬱屈し、辛雲京と戦いを交えたが敗北し、息子を一人失った。
これを受けて宦官たちは「やはり懐恩は反逆の意思あり」と代宗に進言した。
代宗は再び、顔真卿(がん しんけい)を遣わした。顔真卿は奏上した:
「懐恩反逆を唱える者は、辛雲京・駱奉仙・李抱玉・魚朝恩の四人だけなり。他の者は皆、その冤罪を知る。陛下が真に懐恩を保全せんと欲するなら、郭子儀を遣わし、朔方軍を引き継がせよ。戦わずして服せしむるなり。」
李抱玉の弟・李抱真(り ほうしん)も同様の建言をした。代宗はこれを聞き入れ、汾陽王・郭子儀を遣わして懐恩の兵権を接収させ、長安への帰還を命じた。
この三年にわたる膠着状態の末、代宗のこの一手が、懐恩を追い詰める最後の一撃となった。
永泰元年(765年)九月、懐恩はついに吐蕃・回紇・吐谷渾・党項・奴剌(どらつ)らの諸部族を引き連れて、数十万の兵を率い、唐に侵攻した。
彼は本当に反逆したのである。
しかし郭子儀が前線に現れると、敵軍の多くはかつての部下たちであり、戦意を失った。『資治通鑑』巻二百二十三に曰く:
「子儀至、諸胡望見、皆下馬羅拜曰、『吾父也!』」
戦は成立せず、懐恩は鳴沙城(めいさじょう)へ逃げ延びたが、数日後に病没した。
このようにして、大唐に赫赫たる功を立てた不世出の名将は、反逆者の烙印を押されたまま、生涯を終えたのである。
代宗はその死を聞いて、嘆息して曰く:
「懐恩、本は反逆の志なし。左右の者に誤らされたるなり。」
実は代宗も、懐恩が冤罪であることを理解していた。しかし、「反逆する意思があるか」ではなく、「反逆できる力があるか」が問題だった。璧(たからもの)を懐く者は、罪あり――それが権力者の常識であった。
郭子儀は戦後、即座に長安に帰り、悠々と余生を送った。だが懐恩はそうしなかった。回紇との関係、河北藩鎮との接触――すべてが皇帝の猜疑心を掻き立てた。
朝廷は公然と彼を処断できなかった。功臣であり、封賞の詔書の墨も乾かぬうちだったからだ。
そこで採られたのは、陰に陽に彼を挑発し、自ら罠に落ちるのを待つ戦略だった。
「皆が汝が反逆すると言う。ならば証明せよ――長安に来て、首を差し出せば、反逆しないと証明できる。」
拒めば、「陛下の命に背く」とされ、反逆の証拠とされる。
「ほら、やっぱり反逆したではないか!」
このような構図の中で、懐恩に逃げ道はなかった。
彼の母は、息子の反逆を知り、嘆いて曰く:
「国は汝に厚遇せり。これいかん!」
懐恩は無言で二度土下座し、母は刀を抜いて「我が手で国賊を斬る!」と叫んだ。懐恩は飛び退り、門外へ駆け出した。
走りながら呟いた。
「母上、これもやむを得ざることなり。
君、臣をして反せしむ。臣、反せざるを得ず。」