黄巣の乱後、なぜ門閥貴族は没落したのか?唐末の節度使はなぜ「土皇帝」と呼ばれたのか?
ある細部が、当時の情勢をよく物語っている。黄巣の乱軍が長安を撤退した際、生き残った世家(門閥貴族)の子弟たちは、逃亡のための車を雇う現金すら集められず、祖伝の典籍や書画を抱えて徒歩で命からがら逃げ延びたという。『旧唐書・黄巣伝』に曰く:「巣既去長安,士族多貧悴,至有鬻子鬻女以給衣食者。」
ある細部が、当時の情勢をよく物語っている。黄巣の乱軍が長安を撤退した際、生き残った世家(門閥貴族)の子弟たちは、逃亡のための車を雇う現金すら集められず、祖伝の典籍や書画を抱えて徒歩で命からがら逃げ延びたという。
『旧唐書・黄巣伝』に曰く:「巣既去長安,士族多貧悴,至有鬻子鬻女以給衣食者。」(黄巣が長安を去った後、士族は多く貧窮し、子や娘を売って衣食を賄う者さえいた。)
この逸話からも明らかなように、門閥の権勢は、実質的な軍事力や経済力ではなく、むしろ文化資本と社会的威信に依拠していた。刀兵の災禍に直面すれば、そのような「虚名」は真剣(しんけん)の刃をもってしても防げなかったのである。
一方、節度使はまったく性質が異なっていた。
安禄山の反乱が悪しき先例を開いて以来、各地の節度使は事実上の「土皇帝」と化した。
『資治通鑑』巻二百一十七に記す:「自是之後、節度使皆專兵、擅命、不奉朝命。」(この後、節度使はみな兵を専有し、勝手に命令を下し、朝廷の命に従わなくなった。)
多くの人が知る通り、唐末の節度使はもはや単なる武将集団ではなかった。たとえば朱温(後の後梁の太祖)が宣武軍節度使に就任すると、軍を掌握するだけでなく、自ら刺史・県令を任命し、管轄内の科挙試験にまで干渉した。
さらに驚くべきことに、ある節度使は民間人の婚喪嫁娶にまで介入した。これは比喩ではない。幽州節度使・劉仁恭は実際に『禁民間厚葬令』を発布している。
『新唐書・劉仁恭伝』に曰く:「仁恭禁民間厚葬,犯者罪之。」(仁恭は民間の厚葬を禁じ、違反者を処罰した。)
ただし、節度使が門閥を完全に凌駕したと断ずるのは早計である。
唐昭宗の時代、宰相・崔胤(さいいん)が朱温の兵力を借りて宦官勢力を一掃しようとしたが、逆に朱温に殺害された事件がある。
表面的には軍閥が文官を蹂躙したように見えるが、その裏には崔胤が清河崔氏という名門の出自と、朝廷内の門閥ネットワークを背景にしていたからこそ、朱温との提携を敢行できたという事情がある。
さらに、朱温が後に帝位を簒奪する際も、単に武力で押し切ったわけではない。彼はまず部下に「百官勧進表」を偽造させ、その名簿の前列には裴枢(はいすう)、独孤損(どっこそん)といった世家出身の高官の名を並べさせた。
『資治通鑑』巻二百六十五:「温令李振作勧進表,列裴枢、独孤損等三十余人名于首。」(朱温は李振に命じて勧進表を作らせ、裴枢・独孤損ら三十余人の名を先頭に並べさせた。)
これは、唐王朝が滅亡の瀬戸際にあっても、門閥が持つ「政治的シンボル価値」が依然として不可欠だったことを示している。
当時の中央朝廷は、もはや空殻同然だった。実権は、臨時の勢力連合が握っていた。
たとえば、唐僖宗が宦官・田令孜(でんれいし)に四川へ連れて行かれた際、長安奪還を果たしたのは、鳳翔節度使・李昌符(りしょうふ)と静難軍節度使・朱玫(しゅばい)の連合軍であった。
しかし彼らは直後に互いに攻め合い、朱玫は部下の王行瑜(おうこうゆ)に殺され、その首を朝廷に献上されて「功績」とされた。
『旧唐書・王行瑜伝』:「行瑜斬朱玫首以献,朝廷嘉之。」(王行瑜は朱玫の首を斬って献上し、朝廷はこれを称賛した。)
このような混乱の中で、門閥と節度使の関係は「相互利用」に近かった。節度使は門閥の政治的正統性を必要とし、門閥は節度使の武力による保護を求めていたのである。
だが、実際の破壊力においては、やはり節度使が圧倒的だった。
乾寧四年(897年)の「白馬驛の禍」がその典型である。
朱温の側近・李振(りしん)は、かつて科挙に落第した恨みを抱いており、裴枢・独孤損ら三十数名の朝臣を黄河に投げ入れ、「此輩自ら清流と称す。宜しく黄河に投じ、永く濁流と為すべし」(こいつらは自分を清流だと言うが、黄河に投げ込んで、永遠に濁流にすべし)と叫んだ。
『新唐書・裴枢伝』:「振曰:『此輩自謂清流,可投諸黄河,使為濁流。』遂盡殺之。」(李振は言った:「こいつらは自分を清流だと言う。黄河に投げ込んで、濁流にすべし。」遂にすべて殺した。)
犠牲者の大半は世家の子弟であった。この事件の恐るべき点は、数百年にわたり蓄積された門閥の政治的資源が、一振りの屠刀の前にまったく無力だったことにある。
ただし、門閥の衰退は唐末に始まったわけではない。その兆しはすでに中唐期から現れていた。
科挙制度は門閥の独占を完全に打ち破ったわけではないが、少なくとも寒門(一般庶民)の子弟に登用の道を開いた。
晩唐には、牛僧孺(ぎゅうそうじょ)や李徳裕(りとくゆう)のような、最上級の門閥に属さない人物も宰相にまで登った。
また節度使の世界は、さらに多様だった。沙陀(しゃだ)族の李克用(りこくよう)のような異民族将軍もいれば、私塩の密売で身を起こした王建(おうけん)のような草莽の英雄もいた。
こうした社会的流動性の拡大は、結果的に門閥の支配基盤を弱体化させた。
興味深いことに、多くの節度使自身が実は名家の出であった。
たとえば鎮海軍節度使・銭鏐(せんりゅう)は、呉越銭氏の始祖であり、後世には銭謙益(せんけんえき)や銭鍾書(せんしょうしょ)といった著名人を輩出している。また成徳軍節度使・王鎔(おうゆう)は太原王氏の出で、その系譜は王羲之(おうぎし)にまで遡る。
『新五代史・王鎔伝』:「鎔、太原王氏の裔なり。」(王鎔は太原王氏の末裔なり。)
こうした人物たちは、地方において軍閥であると同時に文化の庇護者でもあった。そのため、黄巣の乱後、河北地方の世家大族が存続できたのは、まさに地元の節度使たちの保護があったからこそなのである。