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府兵制度はなぜ崩壊したのか?唐代の府兵はなぜ逃げ出したのか?

古来より揺るぎざる真理がある。「政治上の特権なくして、経済上の権利を保つことはできない」。府兵制度の崩壊は、決して経済的理由によるものではなかった。その本質は、府兵が政治的特権を失ったことにより、戦闘意欲も戦闘力も失われたことにあった。実際、歴史学者の研究によれば、唐初においてすでに。

龍の歩み龍の歩み

古来より揺るぎざる真理がある。「政治上の特権なくして、経済上の権利を保つことはできない」。

府兵制度の崩壊は、決して経済的理由によるものではなかった。その本質は、府兵が政治的特権を失ったことにより、戦闘意欲も戦闘力も失われたことにあった。

実際、歴史学者の研究によれば、唐初においてすでに、折衝府(府兵の編成単位)が最も集中していた関中地方では、府兵に与えられる永業田が慢性的に不足していたという。『通典』巻七にはこう記されている:

關中地狭,人稠,永業不足,兵士多怨。
(関中は土地が狭く、人口が密集しているため、永業田が不足し、兵士たちは多くが不満を抱いていた。)

にもかかわらず、この時期の府兵はなお高い戦闘力を維持していた。その理由は何か?

それは、当時の府兵は貧民にはその資格がなく、ほとんどが中小地主階級の子弟で構成されていたからである。彼らが府兵となる目的は、わずか数十畝の田地のためではなく、官途への登竜門としての役割にあった。

唐代には「勲官制度」という制度があり、府兵が軍功を挙げたり戦死したりした場合、一定の「勲位」が授与された。この勲位には実質的な特権が伴っていた。『唐六典』巻二には次のようにある:

勲官者,得免徭役,有罪得減贖。
(勲官を持つ者は、正役(国家の労役)を免除され、罪を犯しても減刑または贖罪(金銭で罪を免れる)が可能である。)

特に重要なのは、「死刑に処されるべき罪も、勲位があれば流罪に減じられる」という点である。これが、土地が十分に支給されなくとも人々が府兵を志願した最大の動機であった。

さらに、勲官制度は現代の軍階級制度に似ており、一定の勲位を得れば兵部(国防部に相当)の選考を経て、実職に任じられる仕組みだった。『旧唐書・職官志』にはこう記されている:

上柱国、柱国、上護軍、護軍……各以勲階,量才授職。
(上柱国・柱国・上護軍・護軍などの勲位に応じて、その人物の才覚に応じて官職が授けられた。)

例えば、「大校」に相当する勲位があれば最低でも「団長」級、「中将」級であれば「副軍長」級の職に就くことが可能だった。

しかし、唐高宗(649–683年在位)の時代以降、勲位は次第に名誉職化し、実職との連動が失われていった『新唐書・兵志』にはこうある:

勲官猥多,徒有其名,無復實用。
(勲官があまりにも多くなり、名ばかりで実用性を失った。)

武則天の時代には、すでに「上柱国」(最高勲位)にまで昇った者が、実際の軍職は「一卒(普通兵)」という例すらあった。これは、現代で言えば「大将の階級を持つ列兵」のようなものである。

さらに深刻だったのは、本来「上番宿衛」——すなわち皇帝の警護のために京師(長安)に詰めるべき府兵が、高宗期以降、貴族や高官の私的労働力として使い潰されるようになったことである。『通典』巻十六にはこう記録されている:

府兵多被貴勢驅使,營造、運輸,無所不為。
(府兵は多くが権勢者に駆使され、建築・運搬など、あらゆる雑役に従事させられた。)

想像してほしい。
肩に「少尉」「少佐」「大佐」「少将」の階級章をつけた若者が、長安の工事現場でセメントを練っている光景を

かつて彼らは、郷里では地主の若旦那、才色兼備の俊英として慕われていた。それが今や、都で「雑役兵」としてこき使われる存在となった。

そのため、「府兵」という言葉自体が、長安では罵倒語と化してしまった。

これを現代に置き換えればこうなるだろう:「985大学(中国トップ大学群)に合格した新入生は、まず一年間、街路やトイレの清掃を義務づけられる。その後、卒業後は十年間、辺境の貧困地域に勤務しなければ内地に戻れない」。

結論として、府兵制度の崩壊は、経済的困窮ではなく、政治的特権の剥奪に起因する。特権を失った府兵は、南北朝時代の南朝における「世兵(世襲兵。身分的に卑賤とされた兵士)」と同じ運命をたどることになった。

『隋書・食貨志』にはこうある:

兵士卑賤,人所不齒。
(兵士は卑しく、人々が軽蔑する存在となった。)

結果として、大量の府兵が逃亡し、制度は事実上崩壊したのである。


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