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王孝傑はなぜ吐蕃の王に処刑を免れたのか?吐蕃の贊普が涙した理由とは?

西暦678年、唐の名将・王孝傑(おう こうけつ)は吐蕃(とばん)軍に捕らえられ、処刑寸前まで追い込まれた。当時の吐蕃には「唐の名将を捕らえたら殺す」という慣例があった。しかし、処刑直前、吐蕃の贊普(王)・赤都松贊(せきとしょうさん)が刑場に姿を見せると、その場の空気は一変した。赤都松贊は王孝傑の顔を見た瞬間、立ち尽くし、涙を流して叫んだ。

龍の歩み龍の歩み

西暦678年、唐の名将・王孝傑(おう こうけつ)は吐蕃(とばん)軍に捕らえられ、処刑寸前まで追い込まれた。当時の吐蕃には「唐の名将を捕らえたら殺す」という慣例があった。しかし、処刑直前、吐蕃の贊普(王)・赤都松贊(せきとしょうさん)が刑場に姿を見せると、その場の空気は一変した。

赤都松贊は王孝傑の顔を見た瞬間、立ち尽くし、涙を流して叫んだ。

「汝の容貌、実に我が父に似たり!」
(『旧唐書』巻192「王孝傑伝」より意訳)

その一言で、王孝傑は即座に処刑を免れ、贊普自らの手で解放され、以後、吐蕃最高の賓客として遇されることとなった。

■ 少年より軍旅に身を投じ、戦場で頭角を現す

王孝傑は今・陝西省臨潼(りんとう)の出身。少年の頃から軍門に入り、各地の戦場を転戦した。古代中国において、男児が功名を立てる唯一の道は戦場であった。王孝傑もその道を歩み、下級兵士から軍の総管(司令官クラス)へと駆け上がった人物である。

しかし、彼の運命を大きく揺るがす事件が起きたのは、西暦677年——。

「調露元年、吐蕃寇涼州。以李敬玄為諸軍大総管、王孝傑・劉審礼を副と為し、以て之を討たしむ。」
(『資治通鑑』唐紀十八・調露元年条)

この戦い、初期は唐軍が優勢を保ったが、九月、青海湖畔での戦闘で、王孝傑と劉審礼が前線に立ったところ、総大将・李敬玄が突然後退を命じた。その結果、二人は孤立無援のまま吐蕃軍に包囲され、捕虜となった。

李敬玄は文官出身で、軍事経験皆無。戦況をまったく理解せず、青海に留まって逡巡した挙句、味方を見捨てる形となった。この敗戦の責任を問われ、高宗は李敬玄を衡州刺史へ左遷した。

「敬玄無将帥之略、逗留不進、遂致敗績。貶為衡州刺史。」
(『新唐書』巻107「李敬玄伝」)

■ 死刑寸前、贊普の涙が運命を変える

翌678年、王孝傑は吐蕃の都へ連行され、厳しい尋問と懐柔策に晒された。吐蕃側は彼の帰順を望んだが、王孝傑は頑として拒否。処刑が決定された。

ところが——刑場に現れた贊普・赤都松贊が、彼の顔を見た瞬間、号泣して制止を命じたのである。

「孝傑の容貌、贊普の父に酷似す。贊普、感極まって涙し、直ちに縄を解かしめ、以後、誰も彼を害することなかれと命じた。」
(『旧唐書』巻192「王孝傑伝」)

赤都松贊は幼少の頃に父を失っており、その面影を王孝傑に重ね、まるで父の再来と信じ込んだという。以後、王孝傑は吐蕃宮廷で最高の待遇を受け、贊普の「父の代わり」として敬われた。

しかし、王孝傑の忠義は揺るがなかった。贊普はその忠誠心に感銘を受け、やがて彼を唐へ送り返す決断を下した。

■ 武則天の時代に再起、安西四鎮を奪還

王孝傑が唐に帰還した頃、朝廷はすでに武則天の支配下にあった。しかし、彼の吐蕃滞在は不名誉とされず、逆に異国の地でも節を曲げなかった忠誠が評価され、右鷹揚衛将軍に任じられた。

そして西暦692年——再び吐蕃との戦いが勃発。

「長寿元年、西州都督唐休璟上表し、安西四鎮の復権を請う。則天、王孝傑を威武軍総管とし、阿史那忠節と共に西域へ遣わす。」
(『資治通鑑』唐紀二十一・長寿元年条)

今度の王孝傑には、李敬玄のような無能な上官はいない。阿史那忠節との連携も完璧で、同年十月、吐蕃軍を大破し、安西四鎮(龜茲・于闐・疏勒・焉耆)を唐の手に取り戻した。西域の安定は、王孝傑の戦略と勇猛によって再び保たれたのである。

その後も、突厥や契丹の侵攻があるたび、武則天は「王孝傑を出せ」と命じた。彼は武周政権の“国境の盾”として、再びその名を轟かせた。

■ 最期の戦い——契丹との戦いで壮烈な最期

西暦697年、契丹が北方で反乱を起こす。王孝傑は蘇宏輝(そ こうき)と共に18万の大軍を率いて出征した。

三月、王孝傑はいつもの如く先鋒を務め、契丹軍と正面から激突。しかし——

「孝傑が前進するや、蘇宏輝、敵の主力を恐れて後退し、遂に孝傑は孤立して戦死す。」
(『新唐書』巻111「王孝傑伝」)

再び、裏切りとも言える味方の撤退によって、王孝傑は包囲され、絶体絶命の窮地に陥った。今回は、もはや「父に似ている」と救ってくれる贊普はいない。

捕虜となるよりは——と、王孝傑はわずかな部下と共に敵中に突入し、壮烈な戦死を遂げた。

武則天はその死を深く悼み、彼を「耿国公(こうこくこう)」に追封した。

「則天、孝傑の死を聞いて哀惜し、耿国公を追贈す。」
(『旧唐書』巻192)

■ 結び——容貌が救った命、忠義が刻んだ名

王孝傑という人物は、歴史の偶然——「顔が似ていた」という奇跡で一度は死を免れた。しかし、彼が歴史に名を残したのは、その容貌ではなく、揺るぎない忠義と、戦場で示した不屈の勇気によるものである。

吐蕃の贊普が涙したのは、父の面影ゆえかもしれない。だが、千年後の我々が彼を語るのは、ただ一人の武人の、国を思う心ゆえである。

「将帥の道は忠義にあり、死生は軽し。」
——『新唐書』兵志より

一代の名将・王孝傑は、こうして歴史の長河にその名を刻んだ。


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