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王建は文盲なのにどうして歴史評価が高い?前蜀はなぜ「小唐朝」と呼ばれるのか?

王建が掌握した領域は、北は漢中、西は川蔵境界、南は雲貴高原、東は白帝城に至り、その広さは数千里にわたった。その総合力は、中原の朱温、河東の李克用、淮南の楊行密と並び称される、晩唐四大覇者(『新五代史』巻六十三「前蜀世家」)の一角をなしていた。しかし、この実力者・王建は、決して中原進出の野望を抱かなかった。

龍の歩み龍の歩み

王建が掌握した領域は、北は漢中、西は川蔵境界、南は雲貴高原、東は白帝城に至り、その広さは数千里にわたった。その総合力は、中原の朱温、河東の李克用、淮南の楊行密と並び称される、晩唐四大覇者(『新五代史』巻六十三「前蜀世家」)の一角をなしていた。

守蜀の知恵 —— 野心を封じた現実主義

しかし、この実力者・王建は、決して中原進出の野望を抱かなかった。彼は蜀中一帯の支配に満足していたのである。これは王建が無気力だったからではない。中原攻略の難度が、蜀の守備に比べて遥かに高いことを熟知していたからだ。李茂貞、朱温、楊行密、李克用、銭鏐、馬殷、劉巖、王審知らを次々と撃破するなど、当時の歴史的条件下では誰にも不可能なことであった。

蜀に拠ってから、王建は「偃武修文」の政策を採り、蜀中では戦火がめったに見られなくなった。確かに初期には「王建賦斂重」(『資治通鑑』巻二百六十四、唐紀八十)と記されるように、民衆を苦しめる苛斂の主であったが、馮涓の諫言を受けて「自是賦斂稍損」(同上)と課税を緩和し、百姓は安心して生業に従事できるようになった。この点において、王建の「保守」はむしろ民衆にとっての「福」であったと言える。北宋のように「国朝削并僭偽、救民水火之中」(『宋史』太祖本紀)と称しながら、実際には民衆を苦しめた例と比べれば、その差は歴然である。

政治的演技 —— 涙と忠義のパフォーマンス

王建は時に滑稽な振る舞いを見せる人物であったが、政治的判断は決して曖昧ではなかった。「民の鍋を壊せば、民は王家の鍋を打ち砕く」——この道理を彼はよく理解していた。民衆に温かい飯を食べさせれば、反乱など起きない。古今東西、これに例外はない。

王建の軍事的能力は、同時代の朱温・楊行密といった「軍事の巨魁」には一歩及ばなかった(『十国春秋』巻三十五)。そのため彼は政治的経営に力を注いだ。政治が安定していれば、軍事的劣勢を補えると考えたのである。

たとえば唐天復四年(904年)八月、哀れな唐昭宗李曄が朱温に殺害された際、王建はただちにこの事件から「政治的商機」を見出した。昭宗の悲劇は天下の同情を集めていた。王建は西川掌書記・韋荘の進言に従い、朝廷の発哀使・司馬卿にこう伝えた:

「蜀之将士、世受唐恩。去歳聞輿東遷、凡上二十表、皆不報。尋有亡卒自汴来、聞先帝已罹朱全忠弒逆。蜀之将士方日夕枕戈、思為先帝報仇。」

——『資治通鑑』巻二百六十五、唐紀八十一

その後、王建は東を向いて「号慟」し、涙を流して昭宗の死を悼んだ。実際には、死んだ傀儡皇帝のために朱温と戦う気など毛頭なかったが、このパフォーマンスによって「忠唐の義士」というイメージを確立し、蜀中支配の正当性を高めたのである。

称帝のタイミング —— 影帝の計算高い「後出しジャンケン」

王建の行動には、特に「悪事」を行う際の特徴があった——それは「他人の真似」である。誰かが先に悪事を行えば、それを追って同じことをする。非難されれば「俺はあの人の真似をしただけだ」と言い逃れる。この手口は、現代で言えば「忖度政治」の先駆けとも言えるだろう。

唐天祐四年(907年)四月、形骸化した唐の幼帝・李柷はついに「順天応人」の名目で帝位を朱温(朱全忠)に譲り、289年にわたる大唐帝国は幕を閉じた。

朱温の簒奪は、王建の野心を強く刺激した。しかし王建は愚かではなかった。朱温より先に称帝すれば政治的自殺行為であることを知っていた。彼は指を折って日数を数え、朱温が称帝するのを待ち焦がれた——「自分が後に続けば、非難されない」という計算である。

王建は生まれながらの「影帝」であった。この段階に至っても、演技をやめなかった。蜀の文武百官が「大王雖忠於唐、唐已亡矣、此所謂『天与不取』者也」(天が与えたものを取らぬは、天に背くことなり)と称帝を勧めた際、王建はなお「不従」と拒絶の姿勢を見せた。その後、家臣たちの「苦勧」を受け、ようやく称帝を承諾。だがその前に、蜀の官民を率いて東を向いて「三日間号泣」し、滅びた唐王朝への「孝行」を演じ切った。唐という「義理の親父」を土に埋めた後、王建は嬉々として自らの「快楽人生」を謳歌し始めたのである。

梁の開平元年(907年)九月二十五日、六十歳の老練な「江湖の策士」王建はついに皇帝に即位し、国号を「蜀」とした(『新五代史』前蜀世家)。

文人戦略 —— 歴史を書く者を味方につけよ

ここで王建と朱温を比較してみよう。二人は出身・経歴・年齢・手段が似通っている。それなのに、なぜ朱温は千年にわたり罵られ続け、王建にはほとんど悪評がないのか?その理由は極めて単純——朱温は文人を嫌悪したが、王建は意識的に文人を抱き込んだからである。これは、柴栄が士人に嫌われ、趙匡胤が士人に好かれた理由とも通じる。朱温・柴栄は民衆を愛したが士人を軽んじたため、士人層からの評価は極めて低かった。王建・趙匡胤はその逆であった。士人とは、自らの私的利益しか考えない存在である。彼らに民衆のための正義を語らせれば、十万人に一人もいないだろう。

王建は実は文盲であったが、文盲=愚か者ではない。彼は頭の回転が早く、世渡り上手であった。自らが「橋を渡ってから橋を壊す」ような非道な行いをすることを自覚していたからこそ、意識的に文人層を懐柔した——「文人は歴史を書く者である」ということを、彼はよく理解していたのである。

史書にはこう記されている:

「雖目不知書、好與書生談論、粗暁其理。」

——『新五代史』前蜀世家

文盲帝王が文人を尊重した例は他にもある。十六国時代の後趙・石勒、あるいは王建の「江湖の後輩」である李嗣源などがそうだ。しかし王建の場合、石勒や李嗣源とは事情が異なっていた。彼らは中原の皇帝であったが、王建は蜀という「偏安の地」にいた。蜀は唐の首都・長安と秦嶺一山を隔てただけであり、唐末の大乱の際、長安の貴族・文人層は多くが蜀に避難した。そのため、唐の旧貴族を最も多く収容したのが王建の蜀国であった。

「(王建建国後)所用皆唐名世族。」

——『新五代史』前蜀世家

王建は、これらの避難民が「無価値の財産」であることを認識し、「礼而用之、使修舉故事(唐朝典故)」——つまり丁重に迎え入れ、唐の典章制度の復興にあたらせた。この政策は当時の文人層の支持を得ただけでなく、後世の歴史家たちの評価も高めた。五代十国の中で最も「唐風」を色濃く残した政権は前蜀であり、

「故其典章文物有唐之遺風。」

——『新五代史』前蜀世家

と評されている。むしろ前蜀こそが「小唐朝」と呼ぶにふさわしく、唐の正統を自称する後唐や南唐よりも、遥かに純粋な唐文化を継承していたのである。

死人をも利用する演技力

王建は演技に拍車をかけ、臣下たちにこう語った:

「吾為神策軍将時、宿衛禁中、見天子夜召学士、出入無間、恩礼親厚如寮友、非将相可比也。」

——『新五代史』前蜀世家

——唐の皇帝たちはすでに何年も前に死んでいるというのに、王建は未だに彼らを墓場から引っ張り出して、自分の政治劇の「助演俳優」に仕立てていたのである。

このような詭弁と演技の巧みさは、真性の「直情径行」タイプである朱温には、到底真似のできない芸当であった。

終焉の四大佬 —— 朱温も認めた“兄上”

晩年の「江湖四大佬」のうち、李克用と楊行密はすでに没し、残るは王建と朱温のみ。朱温もまた、王建の実力が自分に劣らぬことを自覚していたため、使者を蜀に送るたびに「兄上」と敬称を用いて接した。朱温には、自らの生前に王建を倒すなど、夢のまた夢であることを悟っていたのである。


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