安史の乱で平盧節度使は本当に叛乱した?河東節度使は安禄山に味方した?
山西(河東節度使)は実際には叛乱を起こさず、遼寧(平盧節度使)は当初確かに安禄山に従って反乱を起こしたが、霊宝の戦い(756年)より前に、平盧の兵士たちは安禄山が任命した節度使を殺害し、朝廷に帰順していた。そのため、その功績はあまり知られていない。『旧唐書』巻一一一〈侯希逸伝〉には次のように記されている。
山西(河東節度使)は実際には叛乱を起こさず、遼寧(平盧節度使)は当初確かに安禄山に従って反乱を起こしたが、霊宝の戦い(756年)より前に、平盧の兵士たちは安禄山が任命した節度使を殺害し、朝廷に帰順していた。そのため、その功績はあまり知られていない。
『旧唐書』巻一一一〈侯希逸伝〉には次のように記されている:
「天宝末、安禄山反し、其の腹心徐帰道を平盧節度使に署す。希逸時、平盧の裨将なり。兵を率い、安東都護王玄志と協力して帰道を襲撃・誅殺し、その事を朝廷に奏上す。詔により、玄志を平盧節度使に任ず。」
その後、侯希逸は孤立した飛地・平盧において数年にわたり叛軍に抵抗した。しかし、援軍は断たれ、さらに叛軍および周辺の異民族(奚族)の攻撃を受け、やむを得ず山東地方へ南下することとなった。
『資治通鑑』巻二百二十一(至徳二載、757年)にもその経緯が記されている:
「平盧節度使侯希逸、范陽と連年攻戦す。救援既に絶え、また奚に侵されしゆえ、遂にその軍二万余人を率いて李懐仙を襲い、これを破る。因りて兵を引きて南下す。」
一方、河東節度使について見ると、天宝十載(751年)には安禄山が范陽・平盧の両節度使に加え、河東節度使も兼任していた。しかし実際には、河東の中部・南部、特にその治所である太原府は、安禄山の支配下には置かれていなかった。
安禄山が反乱を起こした当初、太原尹(北京副留守)を務めていた楊光翙は、宰相・楊国忠の腹心であり、安禄山に従わなかったのは当然のことであった。『資治通鑑』巻二百一十七(天宝十四載、755年)には次のようにある:
「太原尹楊光翙、国忠の親信なり。禄山の反に際し、これに従わず。」
このように、河東地域は叛乱に加担せず、むしろ唐朝廷の重要な拠点として機能していたのである。