杜甫はなぜ回鶻(回紇)の借兵を「恐れた」のか?安史の乱で唐はなぜ回鶻に兵を借りたのか?
杜甫の詩は、単なる文学作品ではなく、同時代の政治・軍事・社会を映す「鏡」である。彼は回鶻(かいこつ)の戦力に期待しつつも、その暴虐に民の苦しみを看取(かんしゅ)した。大唐は「虎を借りて狼を制す」危うい外交を強いられ、その代償は民衆の犠牲によって支払われた。『北征』とは「北へ向かう旅」の意である。
杜甫の詩は、単なる文学作品ではなく、同時代の政治・軍事・社会を映す「鏡」である。彼は回鶻(かいこつ)の戦力に期待しつつも、その暴虐に民の苦しみを看取(かんしゅ)した。大唐は「虎を借りて狼を制す」危うい外交を強いられ、その代償は民衆の犠牲によって支払われた。
杜甫『北征』と大唐初の回鶻(回紇)借兵
陰風西北より来たる、惨澹として回鶻に随う。
その王は順を助けんと願い、その俗は馳突(ちとつ)に善し。
兵五千人を送り、馬一万疋を駆る。
此輩は少なきを以て貴しとし、四方はその勇決に服す。
所用(しょよう)は皆、鷹の如く騰(のぼ)り、
敵を破るは矢よりも疾し。
聖心(せいしん)頗る虚しく佇み、
時議(じぎ)の気は奪わんと欲す。
——杜甫『北征』より
『北征』とは「北へ向かう旅」の意である。この詩は、唐の至徳二載(757年)に杜甫が鳳翔(ほうしょう)から鄜州(ふしゅう)へ帰省する途上で詠んだものである。当時、安禄山はその子・安慶緒(あんけいしょ)に殺され、唐粛宗は鳳翔に遷都していた。杜甫は長安を脱出し鳳翔に赴き、左拾遺(させきい)に任ぜられたが、まもなく房琯(ぼうかん)罷相問題で粛宗の怒りを買い、左遷された。『北征』はその失意の旅の途上に生まれた長篇叙事詩である。
杜甫は個人の不遇にもかかわらず、常に国と民を案じていた。この詩には、回鶻兵五千が唐を助けて安史の乱を平定する様子が、まるで千年も前の「現場ルポルタージュ」のように活写されている。
回鶻は西北より来たり、五千の精鋭は鷹のごとく疾く、敵を破る速さは矢よりも勝る。皇帝(粛宗)はその助力を強く望んだが、朝議(ちょうぎ)は借兵に反対の声が多く、士気は低迷していた。
なぜか。それは、たとえ両京(長安・洛陽)を奪還できたとしても、回鶻借兵の「後遺症」が甚大だったからである。
杜甫『留花門』と回鶻兵の暴虐
北門の天驕子(てんきょうし)、飽肉して気勇決なり。
高秋、馬肥えて健(けん)なり、矢を挟みて漢月(かんげつ)を射る。
自古よりこれを患と為し、詩人(しにん)は薄伐(はくばつ)を厭う。
徳を修めてその来を致し、羈縻(きび)して絶たざらしむ。
胡(こ)が為に傾国して至るや、出入り金闕(きんけつ)を暗(くら)しむ。
中原有する所、駆除(くじょ)あり、
隠忍(いんにん)して此の物を用う。
公主黄鵠(こうこく)を歌い、君王白日(はくじつ)を指す。
左輔(さほ)に連雲(れんうん)屯(たむろ)し、百里に積雪を見る。
長戟(ちょうげき)に鳥も飛ばず、哀笳(あいか)は曙(あかつき)に幽咽(ゆうえつ)す。
田家最も恐る、麦倒れ桑枝折る。
沙苑(しゃえん)は清渭(せいい)に臨み、泉香にして草豊潔(ほうけつ)なり。
河を渡るに船を用いず、千騎常に撇烈(べつれつ)す。
胡塵(こじん)太行(たいこう)を逾え、雑種(ざっしゅ)京室(けいしつ)に抵(いた)る。
花門(かもん)既に留むべし、原野は転じて蕭瑟(しょうしつ)たり。
「花門」とは回鶻の別称である。『北征』ではその戦闘力を称えていた杜甫も、『留花門』では回鶻兵が中原に及ぼす災禍への憂慮を露わにする。
「公主黄鵠を歌う」とは、唐粛宗が回鶻可汗に娘・寧国公主(ねいこくこうしゅ)を嫁がせた史実を指す。これは漢武帝が細君公主を烏孫(うそん)に嫁がせた故事を踏まえたもので、『漢書・西域伝』には「願わくは黄鵠(こうこく)となりて故郷に帰らん」との悲歌が記されている。
『旧唐書・回紇伝』にはこうある:
「回紇兵、長安・洛陽に入りて、子女玉帛を掠め、廬舎を焼くこと甚だしく、民は之を苦む。」
百姓にとって最も恐ろしいのは、回鶻兵の略奪であった。「麦倒れ桑枝折る」——農民の生活基盤が踏みにじられ、田畑は荒廃した。回鶻は遊牧民ゆえ、略奪を当然の戦利品と見なし、唐側も「城を落とせば三日間の略奪を許す」と暗黙の了解を結んでいたのである。
この借兵は、大唐にとってまさに「止むを得ざる策」であった。
回鶻兵の実際の戦果と評価
後世には「回鶻はわずか四千騎にすぎず、戦力としては微々たるもの」との見解もある。特に相州(そうしゅう)の戦い(759年)では、回鶻兵はほとんど戦果を挙げなかったとされる。しかし、『資治通鑑』巻二百二十一にはこう記す:
「唐軍、相州にて郭子儀・李光弼ら九節度使が連合するも、統一指揮なく、遂に敗れる。回紇兵、これに従うも、敗因は唐軍の内訌にあり。」
つまり、相州の敗北は回鶻の無能ではなく、唐軍内部の指揮系統の混乱によるものである。
さらに重要なのは、安史の乱末期における回鶻の大規模な軍事介入である。『新唐書・僕固懐恩伝』には次のようにある:
「宝応元年(762年)十月、懐恩率いる唐・回紇連合軍四十万、河東より出でて洛陽を再奪還す。回紇騎兵十万人、昭覚寺の戦いで叛軍を破る。」
この「昭覚寺の戦い」において、回鶻騎兵は実に十万人に達し、安史の乱の最終段階で決定的な役割を果たしたのである。