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安史の乱で唐は本当に回鶻から「兵を借りた」のか?「借兵」は誤解?

安禄山が反乱を起こす以前、彼は草原諸族の精鋭騎兵と馬を大量に吸収し、自軍の騎兵戦力を大幅に拡充していた。『資治通鑑』巻二百一十七にはこう記されている:「禄山養同羅、奚、契丹降者八千餘人,謂之『曳落河』,皆驍勇善戰。」(安禄山は同羅・奚・契丹の降者八千余人を養い、「曳落河」と称した。いずれも驍勇で戦いに長けていた。)

龍の歩み龍の歩み

安禄山が反乱を起こす以前、彼は草原諸族の精鋭騎兵と馬を大量に吸収し、自軍の騎兵戦力を大幅に拡充していた。『資治通鑑』巻二百一十七にはこう記されている:

「禄山養同羅、奚、契丹降者八千餘人,謂之『曳落河』,皆驍勇善戰。」
(安禄山は同羅・奚・契丹の降者八千余人を養い、「曳落河」と称した。いずれも驍勇で戦いに長けていた。)

一方、唐王朝の官軍は総兵力では騎兵において優勢であった。しかし、その兵力は四方に分散しており、例えば隴右節度使は吐蕃を牽制せねばならなかった。そのため、安史の乱が勃発すると、即座に戦力の集中が困難となった。

安禄山は天宝十四載十一月九日(755年12月16日)に范陽で挙兵した。同月、唐玄宗は高仙芝・封常清を相次いで起用し、飛騎・彍騎(中央直属の精鋭騎兵)および朔方・河西・隴右からの援軍、さらには民間から急遽募った兵士を率いさせたが、結果は惨敗。洛陽も陥落した。二人はその後、処刑された。

驚異的な機動力と致命的な時間不足

しかし注目すべきは、反乱勃発からわずか一~二か月のうちに、朔方・河西・隴右の辺境軍が先遣隊を長安へ急行させたという事実である。朝廷が反乱を確認し、調兵の詔を発し、各節度使が命令を受け、部隊を編成・派遣する——この一連のプロセスが一か月以内に完了したことは、唐王朝の軍事的機動力と行政効率の高さを如実に示している。

だが、時間的余裕のなさが致命的だった。これらの先遣部隊は長安到着後、整編・訓練の時間をまったく与えられず、臨時募兵された歩兵と共に、安禄山軍の精鋭騎兵の突撃に耐えられなかった。唐軍は本来、騎兵・歩兵・弩兵が連携する多兵種合同の大規模戦術体系を備えていた。騎兵が欠ければ体系が崩れ、逆に騎兵があっても歩兵が未熟であれば、やはり戦術的整合性を失う。ゆえに、高仙芝・封常清の敗北は決して「無能」によるものではなく、戦術体系が整わぬまま、同様に唐の正規軍出身である叛軍と戦わされたという構造的要因に起因する。

潼関の悲劇と哥舒翰の無念

天宝十五載(756年)五月、各地からの後続部隊がようやく集結し始めたが、依然として整編は不十分だった。ところが玄宗は、哥舒翰に潼関での決戦を強要。六月四日、哥舒翰率いる二十万の大軍は全滅した。
『旧唐書』巻一百九『哥舒翰伝』にはこうある:

「士卒未習戰,行列不整,一鼓而潰,自相蹈藉,死者數萬,投河死者亦數萬。」
(兵士は戦闘に慣れず、隊列も整わず、一度の鼓で崩れ、自ら踏み合い、数万人が死し、河に落ちて死んだ者も数万人に及んだ。)

古代戦場において、一度「崩壊」が起きると、通信手段の限界から指揮系統が完全に断絶する。いくら精鋭でも、統制が失われれば敗北は避けられない。ましてや、河西・朔方・隴右から駆けつけた部隊は、整編すらままならない状態だった。

潼関の敗北後、玄宗は即座に長安を脱出。二十万の兵と大量の装備を無駄に失った。哥舒翰が「後方防衛線を構築すべき」と上奏したことは、『資治通鑑』にも記録されているが、玄宗はこれを無視し、かえって哥舒翰の側近を処刑した。病に伏せ、精神的にも追い詰められた哥舒翰は、やむなく決戦に臨んだ。軍内では将校間の権力争いが激しく、号令も統一されず、整編訓練など到底不可能だった。このような状態で叛軍と戦えば、敗れるのは必然だった。

騎兵枯渇と回鶻援軍の登場

玄宗の逃亡後、唐軍の騎兵戦力は急速に枯渇した。太子李亨(後の粛宗)が馬嵬坡の変後、朔方に赴いて即位し、叛軍への反撃を企図した際、最大の課題は「騎兵の不足」だった。そこで彼は回鶻(回紇)の援軍を要請せざるを得なかった。

回鶻との関係を強化するため、粛宗は息子・広平王李豫(後の唐代宗)を回鶻太子と「兄弟」と結ばせた。これが後世、「唐と回鶻は兄弟の国」と称される所以である。

だが、「兄弟の国」という表現は、現代的な「対等な友好関係」を意味しない。唐代の国際秩序は、「天子=唐皇帝」を中心とする華夷秩序に基づいており、「父子」「甥舅」「叔姪」「兄弟」などの称号は、すべて唐を中心とした尊卑関係の序列を示すものだった。例えば、唐太宗期の吐蕃とは「舅甥(唐が舅、吐蕃が甥)」、玄宗期の突厥とは「父子」の関係を結んでいた。

『九姓回鶻可汗碑』が証言する宗藩関係

この点について、『九姓回鶻可汗碑』(全称:『九姓回鶻愛登里羅汨没蜜施合毗伽可汗聖文神武碑』)は極めて重要な証拠を提供している。碑文にはこう記されている:

「可汗親統四千騎,與王師合勢,收復兩京……永為舅甥之國。」
(可汗みずから四千騎を率い、王師と力を合わせて両京を収復……永く舅甥の国とならん。)

また、碑文全体を通じて、回鶻可汗が唐の冊封を受け、朝貢を行っていることが明記されており、双方が宗主・藩属関係を認識していたことが確認できる。

さらに、元和八年(813年)の出来事もこの関係を裏付ける。当時、回鶻可汗が三度にわたり唐に和親を請うたが、憲宗はすべて拒否。これに対し回鶻は兵を動かして「武力求婚」を試みたが、唐は辺境を戒厳し、馬市(馬と絹の交易)を停止して経済制裁を科した。同年十一月、回鶻が「謝罪使」を派遣してようやく制裁が解除され、唐は19万7千匹の絹を支払って馬市を再開した。この事件後、回鶻は『九姓回鶻可汗碑』を建立し、再び唐への功績を強調しながら和親を請願したのである。

興味深いのは、この碑文中で回鶻可汗が「天可汗」の称号を自称している点である。本来、「天可汗」は唐太宗以来、唐皇帝が草原諸族から与えられた尊称だった。回鶻がこれを自ら称したことは、安史の乱後、唐の西域における権威が著しく低下していたことを示唆している。

だが、たとえ称号を僭称しても、碑文の本質は「藩属としての功績を誇示し、唐からの恩賞を請う」という構造であり、宗藩関係の枠組み自体は崩れていない

「借兵」は誤解——唐の藩兵調発制度

ここで「唐が回鶻から兵を『借りた』」という通説について検討したい。実は、唐代の制度において、これは「借兵」ではなく、天子が藩属国に対して兵を『発する』

唐の皇帝は八つの玉璽(ぎょくじ)を有していた。そのうち六つは秦代以来の制度を継承したもので、

  • 皇帝璽(漢人向け):行政・冊封・調兵
  • 天子璽(非漢人向け):行政・冊封・調兵

非漢人諸族への調兵には「天子璽」を使用し、「発回鶻軍」「発吐蕃軍」と記録された。『旧唐書』『資治通鑑』などの正史には、「借兵」という語は一切登場しない

例えば、粛宗が朔方で即位後、回鶻公主を妃に迎え、回鶻首長を「葉護」(遊牧社会で「汗」に次ぐ高位)に任じ、漠北統治権(四節の印綬)を与えた。これにより、回鶻太子は4000騎を率いて唐軍に合流した。香積寺の戦い(757年)では、この回鶻騎兵が叛軍6万を討ち取ったが、これは「援軍」ではなく、「天子の命令による藩兵の動員」だった。

しかも、香積寺の戦いに参加したのは回鶻だけではない。
『資治通鑑』巻二百二十にはこうある:

「回紇、于闐、安西、西域諸胡及大食(アラビア)兵皆會。」
(回鶻・于闐・安西・西域諸胡および大食(アラビア)の兵がみな参集した。)

翌年には、吐火羅(現アフガニスタン)を含む九か国の君主が自軍を率いて唐に馳せ参じ、朔方行営に編入された。

同様の例として、王玄策が天竺で襲撃された際、ネパールと吐蕃から兵を「借りた」とされるが、実際には『旧唐書・吐蕃伝』にこう記されている:

「松贊干布上表曰:『奴隷之邦,敢不供命!』」
(松贊干布が上表して曰く:「奴隷の邦なり、どうして命に従わざらんや!」)

つまり、吐蕃は自らを「唐の臣下・奴隷」と称しており、王玄策の行動も「発吐蕃兵」であり、「借兵」ではない。

『九姓回鶻可汗碑』にも、回鶻が叛軍(史朝義)の誘いを断り、唐を助けて両京を回復したことが誇りとして記されている:

「賊臣史朝義遣使誘我,許以重賂。可汗怒曰:『唐家恩深,安得負之!』遂與王師共復京師。」
(賊臣史朝義が使を遣わし、厚い贈り物で誘った。可汗は怒って曰く:「唐家の恩は深し、どうしてこれを裏切らんや!」と、王師と共に京師を回復した。)

このように、唐側の正史・回鶻側の碑文・西域諸国の記録が一致しており、「借兵」説は後世の誤解に基づくものであることが明らかである。

さらに、回鶻は安史の乱後も、唐に対して「功績を背景とした特権要求」を繰り返したが、軍事衝突では常に唐軍に敗北している。『新唐書』には「回鶻兵敗於王師」「遣使謝罪」といった記述が複数見られ、唐の軍事的優位は維持されていた

結論

  1. 回鶻は一貫して唐の藩属国として自認しており、双方の史料がこれを裏付ける。
  2. 唐が回鶻騎兵を動員したのは、「借兵」ではなく、天子璽による正式な藩兵調発である。
  3. 安史の乱における回鶻の役割は重要だが、それは唐軍騎兵戦力の枯渇という構造的問題に起因する。
  4. 「兄弟の国」は尊卑秩序の中での称号であり、対等関係を意味しない。
  5. 安史の乱後も、回鶻は唐の軍事力の前に屈服し続け、宗藩関係は形式・実態ともに維持された

よって、「唐が回鶻に兵を借りた」という通俗的理解は、唐代の国際秩序と軍事制度を誤解したものであり、古籍・碑文・考古資料から再検討されるべきである。


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