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唐河の戦いは本当に宋の大勝利だったのか?李継隆は契丹8万騎を2万で破った?

一、宋側史料に見られる「大勝利」の記述端拱元年(988年)十一月、定州唐河において李継隆が契丹軍を破ったとする記録は、宋代史料に頻出する。『続資治通鑑長編』巻二十九には次のように記されている:十一月、契丹大いに唐河の北に至り、入寇せんとす。諸将、詔書に従いて、堅壁清野して戦わずと欲す。

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一、宋側史料に見られる「大勝利」の記述

端拱元年(988年)十一月、定州唐河において李継隆が契丹軍を破ったとする記録は、宋代史料に頻出する。『続資治通鑑長編』巻二十九には次のように記されている:

十一月、契丹大いに唐河の北に至り、入寇せんとす。諸将、詔書に従いて、堅壁清野して戦わずと欲す。……継隆これに従い、衆皆感悦す。継忠、因りて麾下に属することを請う。是に摧鋒先入し、契丹騎大いに潰れ、追撃して曹河を踰え、斬首一万五千級、馬一万匹を獲たり。 『続資治通鑑長編』巻二十九

また、李継隆の墓誌(『李継隆墓誌』)には、さらに誇張された記述が見られる:

是の歳、匈奴八万騎、中山を寇す。公の衆、才か二万。内謁者、詔を伝えて、堅壁して之を待つべしとす。公、諸将に謂いて曰く、『閫外の事、吾が専らに得たり』と。……唐河において大いに敵を破り、奔走を数十里追撃し、俘馘は万を計す。 『李継隆墓誌』

この戦果は、『宋会要輯稿』および『東都事略』にもほぼ同様に採録されており、「斬首一万五千級、獲馬一万匹」という数字は、宋側の公式見解として定着している。

もし真にこの戦果が事実であるならば、それは雍熙三年(986年)の満城の戦いや、同年の白馬嶺の戦い(『宋史・田重進伝』に「斬首五千級、獲馬千匹」とあり)と比肩する規模であり、北宋初期における最大級の勝利の一つと評価されよう。

二、遼側史料との不一致

ところが、『遼史』を検討すると、この「唐河の大勝利」に関する記録は一切見当たらない。白馬嶺の戦いでは、冀王敵烈(テイリエ)、突呂不部節度使都敏、黄皮室詳穏唐筈(タンクオ)ら高位将領が戦死しており、『遼史・景宗紀』には「敗績」と明記されている。満城の戦いについても、『遼史・耶律休哥伝』に「城陥る」とあり、敗北を認めている。

しかし、唐河の戦いについては、『遼史』の本紀・列伝いずれにも「敗北」の記述はなく、李継隆の名すら登場しない。唯一、『遼史・耶律奴瓜伝』および『磨魯古伝』に「定州において宋将李忠吉を破る」とあるが、この「李忠吉」は李継隆の誤記あるいは別称と推測される。

六年、伐宋、先鋒となり、耶律奴瓜と共に其の将李忠吉を定州に破る。 『遼史・磨魯古伝』
六年、再び挙兵し、先鋒軍を将いて、定州において宋の遊兵を敗す。 『遼史・耶律奴瓜伝』

このように、遼側は自軍の勝利を明確に記録しており、宋側の「大勝利」説とは正反対の叙述となっている。

三、戦況の再構築:時間軸と兵力の矛盾

さらに、戦闘の時間軸にも重大な矛盾が存在する。『続資治通鑑長編』は唐河の戦いの捷報が「十一月己丑」(988年12月6日)に到着したと記す。しかし、『遼史・聖宗紀三』によれば、同月甲申朔(12月12日)に遼聖宗は長城口を包囲しており、庚寅(12月18日)にようやく陥落させている。

十一月甲申朔、上、長城口を攻むべしと将むるに、諸軍に攻具を備えしむ。庚寅、長城口に駐し、大軍を督して四面より攻む。……甲午、其の城を抜く。 『遼史・聖宗紀三』

この記録から明らかなように、遼軍主力(聖宗・耶律斜軫・韓徳譲ら)は12月中旬まで長城口・満城周辺に滞在しており、唐河(定州北8里)にまで八万騎を派遣する余力はあり得ない。『遼史・兵衛志』に「先鋒軍三千人」とあるように、定州方面に派遣されたのは小規模な先鋒部隊(耶律奴瓜・磨魯古率いる数千人規模)と考えるのが妥当である。

四、戦闘の実態:定州城下の小規模交戦

宋側史料にも、戦闘が「唐河北」ではなく「定州城南」で行われた可能性を示唆する記述が存在する。『宋史・田敏伝』には次のようにある:

契丹、北唐河を攻む。大将李継隆、部将を遣わして逆戦せしむ。敵に乘ぜられ、奄として水南に至る。敏、百騎を以て奮撃し、敵懼れて水北に退き、遂に引去す。 『宋史・田敏伝』

また、『宋会要輯稿』には「背城而陣」(城を背にして陣を敷く)とあり、これは「背水の陣」ではなく、定州城の南側で戦闘が行われたことを示す。『太平寰宇記』によれば、「唐河は安喜県北八里」とあるため、城下戦が唐河以南で行われたことは地理的にも整合する。

したがって、実際の戦闘は、遼先鋒軍が唐河北で宋伏兵(荊嗣ら)を撃破した後、定州城南まで南下し、田敏・李継隆らの反撃により撃退された小規模な衝突にすぎなかった可能性が高い。

五、「静塞軍」神話の検証

この戦いにおいて特筆される「静塞軍」の活躍も、後世の美化が含まれている。王禹偁『唐河店嫗伝』には、上谷(易州)の静塞軍が「父母は轡をとり、妻子は弓矢を取る」と称され、その勇猛が遼軍の南下を長年抑えていたと記す。しかし、

会い、辺将、静塞の馬を取って帳下に分隷し以て自衛と為す。故に上谷不守。 王禹偁『唐河店嫗伝』

とあり、李継隆が静塞軍を定州に移したため、易州が陥落したとされる。しかし、『宋史・田敏伝』によれば、田敏が指揮したのは「百騎」にすぎず、戦場全体における影響力は限定的であった。

また、『宋史・兵志』には「淳化元年、静塞を三等に分す」とあり、端拱元年(988年)時点ではすでに編成が変更されていた可能性もある。よって、「静塞軍が単騎で敵陣を突破した」という叙述は、戦後における英雄的物語の産物と見るべきであろう。

六、郭守文参戦説の疑義

『宋史・太宗本紀』には「己丑、郭守文、唐河において契丹を破る」とあるが、李燾は『続資治通鑑長編』でこれを疑問視している:

案ずるに、守文は鎮州都部署なり。初めより定州に出兵する詔を受くることなし。安んぞ継隆と共に城を背にして陣せんや。 『続資治通鑑長編』巻二十九

実際、郭守文の墓誌には唐河の戦いへの言及はなく、参戦したのはむしろ裴済(『宋史・裴済伝』に「李継隆と共に唐河で賊を撃つ」とある)と考えられる。郭守文は上級指揮官として名を連ねただけの可能性が高い。

七、戦後の遼軍行動と宋側の評価

唐河の戦い後も、遼軍は攻勢を緩めず、祁州・新楽・小狼山砦を次々に陥落させ、統和七年(989年)正月まで宋境に駐留した。『遼史・聖宗紀』には:

戊戌、祁州を攻めて陥とす。己亥、新楽を撥す。庚子、小狼山砦を破る。 『遼史・聖宗紀三』

とあり、その後、易州を攻めて陥落させ、住民を燕京に強制移住させている。このような大規模な進撃が可能であったことは、宋軍が「大勝利」を収めていたとは到底考えにくい。

一方、宋側文官の評価も厳しい。張洎は上奏して、

賊衆南馳し、長駆深入す。咸(みな)城に嬰(こも)り自固し、敢えて戦わず。……辺境の敵人、莞然自得し、燕・趙を出入りして、猶お人の境を践むが如し。 『続資治通鑑長編』

と述べ、田錫も「威虜等軍、嬰城自固、僅かに閉邑に同じ」と批判している。もし真に「斬首一万五千級」の戦果があったなら、このような悲観的評価はあり得ない。

八、結論:戦果の誇張と歴史認識

総じて言えるのは、唐河の戦いは、宋軍が小規模な反撃により遼先鋒軍を一時的に撃退した局地戦にすぎず、「斬首一万五千級」「獲馬一万匹」という戦果は、戦後における政治的宣伝・史臣の「帰美之辞」(功績を美化する記述)による誇張である可能性が高い。

李燾自身も『続資治通鑑長編』で次のように注記している:

実録又云う、『契丹累歳辺を寇し、頗る民の患と為す。国家、鎮・定・高陽関に大いに兵甲を屯して之を犄角す。……至って是に果たして捷を克つ』。按ずるに、此れ史臣帰美の辞なり。恐らく事実に非ざるべし。 『続資治通鑑長編』巻二十九

最後に、田錫の警句を引用して結びたい:

御戎は、辺上の奏報の虚実を弁え、左右の蒙蔽の有無を察することに在り。奏して失利を告ぐれば未必尽言し、大捷を報ずれば亦深く信ずべからず。 田錫上奏(『続資治通鑑長編』所収)

歴史を読み解く際、勝者の記録のみを鵜呑みにせず、敗者の記録と照合し、虚実を精査することが求められる。唐河の戦いは、その典型例である。


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