端平入洛は失敗だったのか?なぜ史嵩之は端平入洛に反対したのか?
「端平入洛」(1234年、南宋・端平元年の洛陽進軍)は、今もって評価が定まらない出来事である。なぜなら、もし当時、史嵩之(し すうし)や趙彦吶(ちょう げんじゅつ)がこの作戦を支援していたら、南宋軍は果たして関河(かんが:黄河・潼関一帯)の防衛線を維持できたのか、それとも京湖(けいこ:湖北・湖南方面)の精鋭と兵糧をも一挙に失い。
「端平入洛」(1234年、南宋・端平元年の洛陽進軍)は、今もって評価が定まらない出来事である。なぜなら、もし当時、史嵩之(し すうし)や趙彦吶(ちょう げんじゅつ)がこの作戦を支援していたら、南宋軍は果たして関河(かんが:黄河・潼関一帯)の防衛線を維持できたのか、それとも京湖(けいこ:湖北・湖南方面)の精鋭と兵糧をも一挙に失い、後に孟珙(もう こう)が火消しに奔走する兵力すら残らなかったのか——その答えを、現代の我々は決して知ることができないからである。
歴史を「実験」で検証することは不可能であり、現代の視点から古代の戦争を推演しようとする行為は、ある種滑稽ですらある。
立場による評価の分かれ目
実際、端平入洛について論じる際、ほとんどすべての人が何らかの立場的傾向を帯びている。
ある者は、「端平入洛そのものは正しい戦略だったが、内部の対立が解決されなかったために失敗した」と考え、趙范(ちょう はん)・趙葵(ちょう き)兄弟の立場を支持し、史嵩之が政争のために大局を損ねたと批判する。
一方で、「端平入洛の構想自体が非現実的であり、たとえ荊襄(けいしょう:襄陽・江陵一帯)が協力しても防衛は不可能だった」と考える者は、史嵩之の慎重姿勢を「現実的」と評価し、趙范・趙葵が新即位の宋理宗(そう りしゅう)に功を立てようとして軽挙妄動したと非難する。
結局のところ、どちらが「正しかった」のかを断定することはできない。なぜなら、仮に荊襄が協力していたとしても、その作戦が成功したかどうかは、現代人には決して知り得ないからである。
支持者:趙范・趙葵兄弟
趙范・趙葵兄弟は、端平入洛の中心的推進者であった。しかし彼らの問題点は、「真の蒙古軍と戦った経験がなかった」ことにある。北伐出兵以前の最大の戦果は、揚州(ようしゅう)における李全(り ぜん)の討伐である。李全は山東の反乱軍を率いて南宋に帰順したが、その後再び反旗を翻した「偽軍」であり、その戦闘力は正規の蒙古軍とは比べものにならなかった。
また、彼らは金軍とも戦った経験はあるが、当時の金軍も南宋軍も「互いに弱体化した末の戦い」(『宋史』巻四百三・趙葵伝)に過ぎず、いわば「鶏同士の喧嘩」(菜鶏互啄)の域を出なかった。
このような経験に基づき、趙氏兄弟は蒙古軍に対し過度に楽観的・冒進的な見方を抱いていた可能性が高い。彼らは、蒙古軍も李全程度の戦力だと誤認していたのかもしれない。
もう一人、やや曖昧ながら主戦派に近い人物として、陳韡(ちん い)が挙げられる。端平入洛当時の彼の態度は明確ではないが、後に蒙古の南下が始まると、宋理宗は趙葵・陳韡・史嵩之を「抗蒙三閫(こうもうさんこん)」として任命した。『宋史』巻四百十九にはこう記されている:
「子華(陳韡)與南仲(趙葵)論合,獨不與子申(史嵩之)合。」
(子華は南仲と意見が一致し、ただ子申とは合わなかった)
この記述から、陳韡も主戦派に近かったと推測される。ただし、彼の最大の武功は、1230~1234年にかけて閩・粵・浙・贛の四省境界地帯で「土賊を討った」こと(『宋史』巻四百十九)に留まっており、蒙古軍との実戦経験はなかった。
反対者:史嵩之とその周辺
史嵩之自身は、直接蒙古軍と戦ったことはない。彼は常に襄陽(しょうよう)に留まり、「微操」(細かい指揮)に徹した。しかし、彼の配下には蒙古軍と「敵としても味方としても」戦った唯一の将軍——孟珙がいた。
史嵩之が端平入洛に反対した背景には、孟珙の判断があった。『孟珙神道碑』(劉克庄撰)には明確に記されている:
「珙曰:『蒙古之強,非吾所能敵也。今雖聯之滅金,然終必為吾患。宜慎之!』」
(孟珙曰く:「蒙古の強さは、我々が敵うものではない。今こそ金を滅ぼすために連携するが、いずれ必ず我が国の禍となる。慎重にすべきである!」)
このように、史嵩之の反対は、単なる趙葵との政争だけではなく、孟珙の実戦経験に基づく現実的判断に裏打ちされていた。
史嵩之の人物像について、『宋史』巻四百十三にはこう評されている:
「嵩之不喜干武人事,軍務一委於珙。」
(嵩之は武将の仕事を干渉することを好まず、軍務はすべて孟珙に一任した)
これは、彼が「武将に口出ししない」稀有な文官であり、孟珙の専門性を尊重していたことを示している。
孟珙と蒙古軍の「敵・味方」の二重関係
孟珙が蒙古軍と「味方」として戦ったのは、有名な蔡州(さいしゅう)の戦い(1234年)における「連蒙滅金」である。これは『金史』『元史』『宋史』すべてに詳述されており、ここでは省略する。
一方、「敵」としての初戦は、1231年12月、拖雷(だらい)が南宋領内を借道して金を攻めた際のことである。李曾伯(り そうはく)の『可斎雑稿』巻十八には次のように記されている:
「拖雷突至京湖境、拒門之役、珙率精兵萬人往援、亦無益。」
(拖雷が突如として京湖の境に現れ、「拒門の戦い」において、孟珙は精兵一万を率いて救援に向かったが、効果はなかった)
「拒門」という地名は他史料に見られず、おそらく李曾伯の誤記と見られる。しかし、『元史』巻二・太宗紀および『金史』巻十八の記録と照合すると、この戦いは均州(きんしゅう、現在の湖北省丹江口市)武当山付近で発生したと推定される。
李曾伯が「亦無益」と記したのは、孟珙の敗北を婉曲に表現したものであろう。李と孟はともに史嵩之の旧部であり、孟珙没後にはその評価を損なわぬよう、敗戦をぼかして記したと考えられる。
『元史』には「宋兵十萬を破る」とあるが、これは誇張である。実際は、孟珙が率いた一万の精鋭が、拖雷の主力と激突し、苦戦の末に退却したと見るべきである。
この敗北を経て、孟珙は蒙古軍の実力を痛感し、その後二年間、破敵の策を熟考した。
聯蒙滅金の真意と端平入洛の失敗
1233年末、蒙古使節が襄陽に来訪し、南宋に金滅亡への共同作戦を提案した。当時、京湖制置使・史嵩之はその是非を迷い、唯一蒙古軍と戦った経験を持つ孟珙に意見を求めた。孟珙の答は明確だった:
「彼(蒙古)の強さは天を衝く。今、我らの弱さを知らしめざるうちに、一戦して威を示すべきなり。」(『可斎雑稿』より意訳)
つまり、「蒙古は強すぎる。だが今ならまだ我々の実力を知らない。この隙に、金を共に滅ぼして威信を示せば、しばらくは軽んじられない」という戦略的判断であった。
この方針に基づき、蔡州の戦いでは宋軍は見事な戦果を挙げ、唐州・鄧州・蔡州を占領した(『宋史』巻四百十二)。
しかし、この「威信作戦」は、趙范・趙葵による端平入洛で一気に崩壊した。彼らの無謀な進軍と脆弱な戦闘力は、蒙古側に南宋の実力を完全に見透かされてしまう結果となった。
一方、四川方面の趙彦吶も出兵を拒否した。彼は宝慶元年(1225年)以来、蜀地の閫帥として在任し、拖雷借道の際には漢中(かんちゅう)でその脅威を直視していた(『宋史』巻四百十六)。
結論:誰が現実を知っていたか
端平入洛をめぐる議論において、興味深い対比が浮かび上がる:
- 支持者(趙范・趙葵):蒙古軍との実戦経験なし
- 反対者(史嵩之=孟珙、趙彦吶):蒙古軍の実力を体感済み
この事実からすれば、作戦前の議論において、南宋の国力と戦略的限界を正確に把握していたのは、明らかに反対派であったと言える。
歴史に「もし」は禁物であるが、少なくとも当時の「現場の声」は、端平入洛の危険性を明確に警告していたのである。