劉休仁はなぜ殺されたのか?劉彧は有能な皇帝だったのか?
劉宋王朝には才幹ある宗室が少なくなく、しかし多くは自らの一族によって粛清され、その命を絶たれた。『宋書』巻六十一に曰く、「自文帝以降、兄弟相疑、骨肉相屠、未だ已まず」(『宋書』巻六十一)とあり、その惨憺たる状況がよく窺える。宋文帝(劉義隆)の時代から始まり、弟が兄を補佐したかと思えば。
劉宋王朝には才幹ある宗室が少なくなく、しかし多くは自らの一族によって粛清され、その命を絶たれた。『宋書』巻六十一に曰く、
「自文帝以降、兄弟相疑、骨肉相屠、未だ已まず」
(『宋書』巻六十一)
とあり、その惨憺たる状況がよく窺える。
宋文帝(劉義隆)の時代から始まり、弟が兄を補佐したかと思えば、猜忌(さいき)を受けて賜死されるという悲劇が三度にわたって繰り返された。『南史』巻十四には、
「文帝以後、弟を疑い、骨肉を屠るの風、遂に絶えず」
(『南史』巻十四)
と記されている。
劉彧は、孝武帝(劉駿)の生母・路恵男(ろ けいだ)に育てられたため、劉駿は宗室をことごとく猜忌しながらも、劉彧だけには特に親しく接した。『宋書』巻八十二には、
「帝(劉駿)以彧少而和令、風姿端雅、特加親愛」
(『宋書』巻八十二)
とある。劉駿は劉彧に秘書監・中護軍・侍中兼衛尉・領軍将軍などの要職を歴任させ、京師の一部兵権をも与え、機密事項にも参与させた。
劉彧は「少而和令、風姿端雅」であり、
「好読書、愛文義、在藩時、撰『江左以来文章志』、又続衛瓘所注『論語』二巻、行於世」
(『宋書』巻八十二)
と『宋書』に記されている。劉駿とは対照的に、劉彧は文才に富み、学問を好んだ人物であった。
前廢帝(劉子業)の治世下では、劉彧はその暴虐に晒され、辱めを受け続けた。しかし、劉子業が弑殺され劉彧が即位すると、劉駿の第三子・劉子勲(りゅう しぐん)が地方で擁立され、「義嘉の乱」が勃発した。
この乱において、劉彧は名士・蔡興宗(さい こうそう)の進言を採用し、呉喜(ご き)、沈攸之(しん ゆうし)、張永(ちょう えい)、劉勔(りゅう めん)、蕭道成(しょう どうせい)らの武将を重用した。さらに、諸弟の劉休仁らに権限を委ね、積極的に乱を平定させた。
劉彧の遺詔(いしょう)においては、蔡興宗・袁粲(えん さん)・褚淵(ちょ えん)・劉勔・沈攸之の五人を託孤の臣と定め、内外の要衝をそれぞれ掌握させた。また、蕭道成を衛尉に任じ、機要に参与させた。太子・劉昱(りゅう ゆう)が即位したが、実際には劉彧の密命を受け、新帝を補佐し宮中内外の大権を掌握したのは、側近の寵臣・王道隆(おう どうりゅう)と阮佃夫(えん でんぷ)であった。
しかし王道隆・阮佃夫は権勢を濫用し、賄賂を恣(ほしいまま)にし、官位を売買して富を蓄えた。『南史』巻七十七には、
「王・阮之徒、威権を専らにして、賄賂公行、売官鬻爵、其の富国庫を凌ぐ」
(『南史』巻七十七)
と記されている。これにより劉宋の政治はさらに混乱し、国力は著しく衰退した。
『宋書』巻八十二の史臣の論に曰く、
「太宗(劉彧)は易隙(いきゃく)の情に因り、已行の典に拠りて、洪枝を翦落(せんらく)し、顧慮すること能わず。既にして本根無き庇い、幼主孤立し、神器は勢弱きに因りて傾移し、霊命は楽推(らくすい)に随いて回改す。斯れ蓋し履霜(りそう)有りて漸く堅氷自ずから至る。其所由は遠し!」
(『宋書』巻八十二)