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なぜモンゴル軍は南宋征服に30年以上もかかったのか?モンゴル軍は本当に強かった?

モンゴル軍は長きにわたり、南宋を征服・占領する明確な戦略を持たず、むしろ略奪と破壊を主眼としていたと考えられる。特にオゴデイ(窩闊台)時代には、成都を少なくとも二度陥落させたが、いずれも略奪・焼殺の後に撤兵しており、前線基地は常に漢中の興元に置かれていた(この時期、宋軍の最前線防衛拠点は陽平関であった)。

龍の歩み龍の歩み

モンゴル軍は長きにわたり、南宋を征服・占領する明確な戦略を持たず、むしろ略奪と破壊を主眼としていたと考えられる。特にオゴデイ(窩闊台)時代には、成都を少なくとも二度陥落させたが、いずれも略奪・焼殺の後に撤兵しており、前線基地は常に漢中の興元に置かれていた(この時期、宋軍の最前線防衛拠点は陽平関であった)。

南宋征服の本格的な戦略が形成されたのは、モンケ(蒙哥)が蜀地に進攻して以降のことである。この時期、モンゴル軍は沔州・利州に新たに城塞を築き、白龍江一帯に屯田を開始した。成都に常駐軍を置いて完全に支配下に置いたのは、ようやく1258年になってからであった。

重慶(重慶府)についても同様で、モンゴル軍は度々襲撃・略奪を行ったが、占領まではしなかった。南宋滅亡の戦略が本格的に策定されたのは、劉整(リュウ・ジェン)が降伏して以降であり、その攻宋ルートも極めて迂遠なものとなった。

金軍とモンゴル軍の南侵戦略比較

金軍の南侵期には、両淮(淮河以南の淮南東路・西路)を主戦場とし、建康(南京)・臨安(杭州)へ直撃する戦略が採られた。これに対し、モンゴル軍はオゴデイ期の両淮攻勢が失敗した後、襄陽(襄陽)を占領してようやく漢水補給線を確保し、建康方面への進軍を開始した。同時期、博羅歓(ボロカン)率いる淮東路軍は、実質的に「傍観」に近い行動をとっていた(『元史』巻一二一)。

このように、モンゴル軍の進軍距離は金宋戦争期よりも遥かに長く、後方補給の困難が顕著であった。

モンゴル軍の戦略的・戦術的課題

戦争過程においてモンゴル軍が露呈した問題は少なくない。たとえば、モンケが夔州・万州方面への分進作戦を拒否し、自らと汪徳臣(ワン・デチェン)を釣魚城(ちょうぎょじょう)の城壁に突っ込ませた愚策(『元史』巻一五五)。また、伯顔(バイヤン)と劉整の功名争いは、南宋朝廷が降伏した後も続き、張珏(チャン・ジュエ)が重慶を再奪還する事態を招いた(『続資治通鑑』宋紀一八〇)。

モンゴル軍の南征は、金軍全盛期のような宋軍に対する圧倒的優位を示さなかった。完顔亮(ワンヤン・リアン)の大敗後でさえ、金軍の「大定南征」は両淮を直撃し、宋軍を建康への全面的後退に追い込んだ。一方、モンゴル軍はオゴデイ期の廬州攻城戦敗北後、両淮を主戦場とすることはなく、襄陽陥落による宋軍士気の崩壊後、ようやく漢水補給線を活用して上流から下流へと進軍した。

四川戦線の長期化と内戦の影響

四川戦線では、モンゴル軍が度々全境を掃討し、宋軍を少数の堅固な城塞に閉じ込めて短期的反撃しか許さない状況を作り出した。しかし、初期には自発的に撤兵を繰り返しており、さらにフビライ(忽必烈)とアリク・ブケ(阿里不哥)の内戦の影響もあり、四川の安定が図られたのは1260年になってからであった。それでもなお、宋軍は成都への反攻を繰り返している。

攻城戦におけるモンゴル軍の実態

モンゴル軍の「技術的優位」は、むしろ宋軍将兵の精神的動揺を誘発する効果が大きかった。例えば神臂城(しんぴじょう)は「二度降伏し、三度奪還」された(『宋史』)。南宋朝廷が降伏した後も、元軍は一年半以上も包囲を続け、ようやく陥落させている。

襄陽の戦いでは、回回砲(ヒューストン砲)が望楼を破壊すると、宋軍諸将は逃散した(『続資治通鑑』宋紀一八〇)。しかし、将兵が降伏・逃亡しない限り、元軍の実際の攻城戦績は西夏攻めと大差なかった。

個人的見解として、モンゴル軍の攻城戦の「含金量」(戦術的価値)は、完顔宗翰(ワンヤン・ゾンハン)の太原攻めに及ばず、野戦の質も完顔宗弼(ワンヤン・ゾンビ)の郾城(えんじょう)の戦いに劣ると評価できる。

地理的・経済的制約と進軍ルートの選択

1194年の黄河第四次大改道以降、宋・金双方の政治的無策により、淮河の水運は利便性を失い、淮北・山東一帯は氾濫原と化した。淮河支流は堰塞湖だらけとなり、農業生産力は著しく低下した。

「竊見両淮多曠土、官司往時募人営墾、聴其占佃、今已殆遍。謂如佃田百畝、往往広為四至、逾千畝者然。其所占雖多、力実不給、種之鹵莽、收亦鹵莽。大率淮田百畝所收不如江浙十畝。況有不及耕種去処。」

——『尊白堂集』〈使北回上殿剳子〉

かつての南征ルート——寿州・濠州から突破し、淮水を活用して楚州を側面から攻める戦略——は、黄河奪淮(黄河が淮河に流れ込む)によって水系が混乱し、実行不能となった。山東も金末の紅襖軍(こうおうぐん)蜂起で荒廃し、後方基地としての価値を失っていた。

そのため、元軍は博羅歓を淮東都元帥として、下邳・泗州経由で進軍せざるを得なかった。

「遂軍於下邳、召将佐謀曰:『清河城小而固、与昭信・淮安・泗州為掎角、猝未易抜。海州・東海・石秋、遠在数百里之外、必不厳備。吾頓大兵為疑兵、以軽騎倍道襲之、其守将可擒也。』師至、三城果皆下、清河亦降。……遂下揚州、淮東平。」

——『元史』巻一二一〈博羅歓伝〉

淮南地域は人口流失・農業衰退が深刻で、広範囲にわたる「黄氾区」化が進んでいた。元軍がこの地を横断して都市を速攻できなければ、「打草穀」(現地調達)による補給は不可能であり、後方補給線は短期間で崩壊した。

揚州の例を見ても、李彦芝(リ・イエンチ)は謝太后が瓜洲に北上した後も城を死守し、最終的に副将の朱煥(シュ・ファン)が降伏するまで陥落しなかった。これは地形が元軍の兵力展開と補給を著しく制約していたことを示している。

戦争による広範な荒廃

宋蒙戦争による破壊は両淮にとどまらず、広範囲に及んだ。

「六月征伐而困両淮之民、連年科調而困四川之民、両州帰附而困京西之民、十乗征行而困沿江之民、舟船結雇而困沿海之民、濠梁浚築而困荊湖之民、税畝折納而困江湖閩浙之民……自是牧養無良吏、而田里皆疲之氓矣。」

——『歴代名臣奏議』巻一〇〇〈呉昌裔「論今日病勢六事状」〉

「昔之通都大邑、今為瓦礫之場;昔之沃壌奥区、今為膏血之野。青煙弥路、白骨成丘……沃野千里、蕩然無民;離居四方、靡有定所。耕疇不辟、堰務不修、秋不得收、春不得種。」

——『歴代名臣奏議』巻一〇〇〈呉昌裔「論救蜀四事疏」〉

四川戦線でも補給危機が頻発した。

「甲寅春、旱、嘉陵漕舟水澁、議者欲棄去。徳臣曰:『国家以蜀事託我、有死而已、奈何棄之!』尽殺所乗馬饗士。……既而魚関・金牛水陸運偕至、屯田麦亦登、食用遂給。」

——『元史』巻一五五〈汪徳臣伝〉

汪徳臣は略奪・占領による糧食確保に依存しており、これは荊湖戦区では再現不可能だった。

フビライの戦略的制約

黄河改道・戦争破壊・双方の収奪により、フビライが南宋を滅ぼすための進軍ルートは極めて限定されていた。フビライの分地は関中にあり、屯田の重心は豫西(河南西部)にあったため、最も近接かつ兵力展開可能な戦区は荊湖(湖北・湖南)一帯のみだった。

そのため、白龍江での屯田を経てようやく成都駐留が可能となり、「殺戮→荒廃→屯田→前進」というサイクルを繰り返さざるを得なかった。この「天炉戦法」的な広域消耗戦が、戦争を長期化させた要因である。

攻城戦の実態再考:襄陽・樊城の例

襄陽・樊城の陥落過程を『続資治通鑑』は次のように記す。

劉整は鹿頭山で一夜にして宋軍の反撃を撃退し、樊城の「欄馬牆」(城外防壁)直下に回回砲の陣地を構築。雪中の激戦の末、陣地を完成させた。その後、宋水軍を火攻で撃退し、欄馬橋で樊城出撃軍を撃破。さらに浮橋を切断され、樊城は孤立した。

「天順仰天嘆曰:『生為宋臣、死為宋鬼!』即所守地縊死。富率死士百人巷戦……富身被重傷、以頭触柱、赴火死。」

——『続資治通鑑』宋紀一八〇

この記述から、宋軍は士気低下により「出撃不能」だったわけではない。むしろ、鹿頭山での敗北後、一夜で突撃隊を編成しようとしたが間に合わなかったと解釈すべきである。いずれにせよ、長期間の包囲と精神的圧迫が守備兵の戦意を崩壊させたことが敗因だった。

襄陽の陥落は、技術的優位や戦闘力とは無関係に、守将呂文煥の精神的崩壊によるものだった。

揚州・釣魚城:降伏なき堅守

南宋朝廷が降伏した後も、李庭芝(リ・ティンチ)は揚州を死守した。

「庭芝猶括民間粟以給兵、粟尽、令官人出粟、粟又尽、令将校出粟、雑牛皮・麹糵以給之。兵有烹子而食者、猶日出苦戦。」

——『宋史』巻四二一

揚州は人肉食に至る極限状態でも陥落せず、最終的に李庭芝が出城して救援を試みた隙に、副将朱煥が開城した。同様に、釣魚城も降伏がなければ、元軍は全く手も足も出なかった。

オゴデイ期の攻城失敗例

オゴデイ期の沔州・真州の戦いでは、宋軍が士気高く出撃し、モンゴル軍の攻城計画を破壊・反撃したため、城は陥落せず、モンゴル軍は敗走した。

鄂州攻囲戦の「神話」と現実

フビライが「鄂州城の一夜築城」に感嘆したという逸話は、史料によって大きく異なる。

「賈似道作木柵環城、一夕而成」(『元史』廉希憲伝)
「新月城……上可並行大車、排槎丳楼、締構重複、必不可攻」(『元史』郝経伝)

しかし『宋史』には賈似道の活躍は記載されず、「高達率諸将力戦」による防衛成功とある。よって、鄂州防衛線の実態は「一夜の木柵」から「緊急修復された城壁」の間であり、「大車が並走可能な城壁」などあり得ない。

この戦いにおける元軍の攻城能力は、日本の国人衆レベル、あるいは李道宗が安市城を攻めあぐねたレベルに近いと評価せざるを得ない。

南宋末期の兵力実態

南宋末期の兵力は、帳簿上は70万以上とされるが、実戦可能な兵は極めて限られていた。

「今内外兵籍不下七十余万……老弱者十之三……是七十余万之兵、不得七八万人之用。」

——方岳『代范丞相』

「開禧元年、興元都統秦世輔言:『……堪披帯人僅六百二十七。』」

——『宋史』巻一九三

李曾伯(リ・ゾンボー)も、淳祐12年(1252年)の上奏で「軍政は開禧期よりさらに敗壊」と指摘している(『可斎雑稿』巻二〇)。

咸淳年間には、強制徴兵が横行し、

「或甘言誑誘、或詐名賈舟……民有被執而赴水火者、有自断指臂以求免者」

——『宋史』巻一九三

と、兵士の質は極度に劣化していた。

結論:モンゴル軍の「遅さ」の本質

モンゴル軍は戦略的迷走、内戦(フビライ vs アリク・ブケ)、将軍同士の功名争いを抱え、加えて黄河改道・戦争荒廃・補給困難という地理的・経済的制約の中で、やむなく「前進→屯田→包囲」という段階的戦法を採らざるを得なかった。その結果、南宋征服は極めて長期化したのである。

この「遅さ」は、モンゴル軍の戦闘力の高さを示すものではなく、むしろ戦略的・後方的限界を露呈したものと評価すべきであろう。


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