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なぜ趙匡胤は息子・趙徳昭ではなく弟の趙光義に皇位を譲ったのか?

西暦997年、宋の太宗が崩御し、真宗が即位した。この時、直近で「親子相続」が成功し、かつ継承者が追放されずに皇位を保った例は、実に唐の宣宗(在位846–859年)に遡る。宣宗崩御後の懿宗即位について、『旧唐書・宣宗本紀』にはこう記される:「大中十三年八月七日、宣宗崩于大明宮。太子漼即皇帝位、是為懿宗。」

龍の歩み龍の歩み

西暦997年、宋の太宗が崩御し、真宗が即位した。この時、直近で「親子相続」が成功し、かつ継承者が追放されずに皇位を保った例は、実に唐の宣宗(在位846–859年)に遡る。宣宗崩御後の懿宗即位について、『旧唐書・宣宗本紀』にはこう記される:

「大中十三年八月七日、宣宗崩于大明宮。太子漼即皇帝位、是為懿宗。」
(大中十三年八月七日、宣宗は大明宮にて崩御。太子漼が即位して懿宗となる。)

この859年の継承から997年まで、実に138年の長きにわたり、「父死子継」が安定的に成立した例は、後周の柴栄(世宗、郭威の養子)を除けば皆無であった。五代十国という乱世において、血縁による継承はむしろ例外的であり、軍閥・権臣の力が皇位を左右していたのである。

趙匡胤の早逝と趙徳昭の未熟

趙匡胤がもし「一紀(十二年)の延命」を得ていたならば、北漢征伐を自ら完遂し、遼との戦いにも劣勢を許さず、さらには遷都計画(洛陽移転)を実現して政権基盤を再編し、後継者・趙徳昭(当時二十代)に盤石な体制を引き継がせることも可能だったであろう。

しかし現実はそうではなかった。『宋史・太祖本紀』に曰く:

「開宝九年冬十月癸丑夕、帝崩于万歳殿、年五十。」
(開宝九年冬十月癸丑の夕、帝は万歳殿にて崩御、享年五十。)

この時、北漢は未平定遼との大戦必至の情勢下にあった。趙光義は四十歳目前、一方趙徳昭は二十代半ば、しかも政務に携わってわずか三年。対して趙光義は十八年にわたり中央政界で実務を積み、宰相・開封尹としての実績を有していた(『宋史・太宗本紀』)。この力量差の前には、如何ともしがたかったのである。

五代の乱世と青年皇帝の限界

趙匡胤の時代は、五代十国の軍閥政治がようやく終息した直後であり、宋朝の制度整備は未完であった。多くの政治改革は、実は趙光義の治世において完成された(例:科挙制度の拡充、中央集権化)。このような過渡期に、政界経験浅き青年を皇帝に据えることは、極めて危険な賭けであった。

趙匡胤以前の皇帝・皇位継承者たち——李曄、李柷、朱温、朱友珪、朱友貞、李存勗、李嗣源、李从珂、石重貴、劉承祐——の多くは、戦場で鍛えられた乱世の梟雄であっても、権力闘争に敗れて倒れた。『資治通鑑・後唐紀』には李存勗の最期がこう記される:

「庄宗好畋獵、伶人亂政、將士離心。郭從謙反、帝中流矢崩。」
(庄宗は狩猟を好み、伶人が政を乱し、将兵は離反。郭従謙が反乱し、帝は流れ矢に中たれて崩御。)

このような激動の時代に、威望も実績もない趙徳昭を突如皇帝に据え、北漢・遼との決戦を指揮させることは、国家の存亡を賭けた博打であった。

趙光義即位——最悪でない選択

この情勢下において、趙光義の即位は、趙匡胤にとって「最悪でない選択」であった。趙光義が重大な失脚をしなければ、彼は面子を保つためにも、趙匡胤の子らを表面上は遇するはずであった。

しかし、高梁河の戦い(979年)で趙光義が敗走(「驢車漂移」と皮肉られる)し、不在の間に諸将が三十歳目前の趙徳昭を頼りにした事実を知った時、趙徳昭の運命は決した。『宋史・宗室伝・燕王徳昭』にはこうある:

「徳昭従征幽州、軍中夜驚、不知帝所在、或欲立徳昭為帝。帝聞之不悦。及還、以北征不利、久不行賞。徳昭言於帝、帝怒曰:『待汝自為之、賞未晚也!』徳昭退而自刎。」
(徳昭は幽州征伐に従軍。夜中に軍が騒然とし、帝の所在を知らず、或いは徳昭を立てようとした。帝これを聞き不快に思う。帰還後、北征の不調により賞を長く行わず。徳昭が進言すると、帝怒って曰く:「汝自ら為してから賞しても遅くない!」徳昭、退いて自害す。)

皮肉な逆説——趙匡胤こそが趙光義の成功を望んだ

実は、最も趙光義の「英明神武」を望んでいたのは、趙匡胤自身であった。政治闘争において、趙徳昭が趙光義に勝てる見込みは皆無であり、趙匡胤自身も、趙光義なき後、趙徳昭が群臣を抑えられるか確信を持てなかった

もし趙光義が耶律休哥を打ち破り、遼を圧倒するほどの武功を挙げたならば、彼は誰にも恐れられず、逆に「仁君」の名声を買うために趙匡胤の子孫を厚遇したであろう。趙徳昭は邸宅に幽閉されながらも、一生安楽に暮らす未来があったはずだ。

だが逆に考えれば——趙光義が対処できなかった危機を、趙徳昭が乗り越えられたであろうか? 諸将に擁立されたとしても、彼が遼を撃破しつつ国内を安定させられたとは思えない。

結論——「趙家政権」の存続が最優先

趙徳昭の地位が趙光義と対等になるほど盤石でない限り、趙匡胤は彼と決裂できず、依存せざるを得なかった。趙家には、政局を安定させる“第二の柱”が必要だった。そうでなければ、五代の混乱が再燃し、「皇位が趙家に留まるか」すら危うかった

趙匡胤の寿命が、趙徳昭を育てるには短すぎた——それこそが、この時代の最大の悲劇であった。

宋史・太祖本紀論』曰く:
「太祖以神武定天下、然享国日浅、未及措置、遽尔升遐、深可悼也。」
(太祖は神武を以て天下を定め、然るに在位の日浅く、措置に及ばずして遽に崩御、深く悼むべきなり。)


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