東呉は本当に北伐に消極的だったのか?諸葛亮が北伐中に東呉は何をしていた?
蜀漢の諸葛亮が五度北伐したことは、誰もが知っているだろう。では、その間、同盟国である東呉は一体何をしていたのか。諸葛亮が第一次北伐を開始した同年、魏と呉の間で「石亭の戦い」が勃発した。両軍合わせて二十万以上の主力が激突した大戦である。『三国志・呉書・陸遜伝』:「休(曹休)率衆向皖、遜為大都督、仮黄鉞、督朱然、潘璋、宋謙、韓綜、徐盛、孫桓、全琮等、逆休於石亭。」
蜀漢の諸葛亮が五度北伐したことは、誰もが知っているだろう。では、その間、同盟国である東呉は一体何をしていたのか。
第一次北伐(建興六年、228年)と石亭の戦い
諸葛亮が第一次北伐を開始した同年、魏と呉の間で「石亭の戦い」が勃発した。両軍合わせて二十万以上の主力が激突した大戦である。
『三国志・呉書・陸遜伝』:
「休(曹休)率衆向皖、遜為大都督、仮黄鉞、督朱然、潘璋、宋謙、韓綜、徐盛、孫桓、全琮等、逆休於石亭。」
第二次北伐(建興六年冬)と石亭の戦いの余波
諸葛亮の第二次北伐の直前、石亭の戦いが終結し、呉が大勝、魏は大敗を喫した。魏の将・曹休は敗戦の責任に耐えかね、間もなく憤死した。
『資治通鑑』巻七十一:
「休慙恚、発背癰而卒。」
第三次北伐(建興七年、229年)と孫権の称帝
諸葛亮の第三次北伐とほぼ同時期、孫権は正式に帝位に就き(黄龍元年)、直ちに合肥攻略を開始。魏の主力を東部戦線に引きつけた。
『三国志・呉書・呉主伝』:
「(黄龍元年)夏五月、權即皇帝位……秋九月、使陸遜、諸葛瑾攻魏江夏、襄陽。」
曹真の反撃と呉の再攻(建興八年、230年)
第三次北伐後、魏の曹真が漢中への大規模反撃を企図したが、その最中に呉が再び合肥を攻撃。加えて「大雨連綿、道路泥濘」(『資治通鑑』)という悪天候も重なり、魏軍はやむなく撤退を余儀なくされた。
第四次北伐(建興九年、231年)と阜陵の伏兵
諸葛亮が第四次北伐中に、呉は阜陵で魏の揚州刺史・王凌を誘い込み伏兵を仕掛けた。しかし魏の満寵がこれを察知し、呉は小勝にとどまった。それでも魏は合肥新城を築城せざるを得ず、多大な資源を費やした。
『三国志・魏書・満寵伝』:
「孫権自出、圍新城……寵馳往赴救、権退走。」
第五次北伐(建興十二年、234年)と二十万の大軍
諸葛亮が五度目の北伐を開始すると、孫権は即座に二十万の大軍を動員して再び合肥を攻撃。魏帝・曹叡は自ら水軍を率いて合肥に急行せざるを得なかった。
『三国志・魏書・明帝紀』:
「(青龍二年)五月、帝東征、如合肥。」
結論:東呉は「北伐不積極」か?
以上から明らかなように、東呉は同盟国として極めて協力的であった。
「北伐に消極的だった」という批判は、到底妥当ではない。
実際、石亭の戦いが終わる前から、孫権はすでに遼東の公孫淵と連絡を取り、魏への共同攻撃を画策していた。また、称帝直後には諸葛瑾を豫州牧、朱桓を青州牧に任じている。
『三国志・呉書・呉主伝』:
「權稱尊号、以瑾為大将軍、左都護、領豫州牧。」
南方の割拠政権として、これほどまでに北進への意欲を見せた政権は他に例がない。蜀漢には「五出祁山」があるが、東呉にも「六攻合肥」がある。劣勢にありながらも、これほど継続的に北上を試みた意志の強さは、諸葛亮に決して劣らない。
東呉の北伐が成功しなかった原因は、能力・政治体制・制度・地理的制約など、さまざまな要因が考えられる。だが、「態度が消極的だった」などという批判だけは、断じて当たらない。