なぜ曹操は漢中戦で撤退したのか?漢中戦で曹操が敗北した本当の理由は?
漢中争奪戦(建安二十三年~二十四年、西暦218–219年)は、三国時代の転換点となった戦いである。曹操が一時的に漢中を放棄した背景には、以下のような三つの要因があった。まず第一に挙げられるのは、補給の困難さである。関中は董卓死後の李傕・郭汜の乱により荒廃しており、軍糧の確保が極めて困難であった。
漢中争奪戦(建安二十三年~二十四年、西暦218–219年)は、三国時代の転換点となった戦いである。曹操が一時的に漢中を放棄した背景には、以下のような三つの要因があった。
一、補給線の崩壊:「秦嶺五百里の石穴」の地獄
まず第一に挙げられるのは、補給の困難さである。関中は董卓死後の李傕・郭汜の乱により荒廃しており、軍糧の確保が極めて困難であった。『三国志』巻十四『程郭董劉蒋劉伝』には、曹操が張魯征伐の際、すでにこの問題に直面していたことが記されている。
原文:
「太祖征張魯,轉曄為主簿。既至漢中,山峻難登,軍食頗乏。太祖曰:『此妖妄之国耳,何能為有無?吾軍少食,不如速還。』便自引歸……」現代語訳:
曹操が張魯を討つ際、劉曄を主簿に任じた。漢中に到着すると、山は険しく登り難く、軍糧も著しく不足した。曹操は言った、「これは妖妄な国に過ぎぬ。我が軍の食料が乏しい以上、速やかに引き返すべきだ」と。自ら退却を命じた……
この「山峻難登、軍食頗乏」という状況は、漢中争奪戦においてさらに深刻化した。建安二十三年(218年)、曹操が夏侯淵の軍を支援するために関中へ進軍した際、すでに南陽の侯音・陸渾の孫狼らが徭役に耐えかねて反乱を起こしていた。『三国志』巻一『武帝紀』にはこうある:
原文:
「冬十月,宛守将侯音反,執太守東里袞,以叛。陸渾民孫狼等亦叛,南附関羽。」現代語訳:
十月、宛城の守将・侯音が反乱を起こし、太守・東里袞を捕らえて反旗を翻した。陸渾の民・孫狼らもこれに倣い、南へ逃げて関羽に帰属した。
このような内乱が相次ぐ中、曹操が大軍を率いて漢中に入れば、補給線は完全に破綻する可能性があった。実際、建安二十四年五月には、漢中駐屯の曹軍から逃亡兵が続出している。『魏書』の記録からも、補給の限界が明らかである。
二、戦略的価値の差異:「鶏肋」対「益州の門戸」
第二の要因は、漢中の戦略的価値に対する認識の違いである。劉備にとって漢中は「益州の門戸」であり、これを失えば蜀漢の存立そのものが危うい。『華陽国志』にはこう記される:
原文:
「漢中、益州之咽喉也。無漢中則無蜀矣。」現代語訳:
漢中は益州の咽喉である。漢中なしには蜀は成り立たぬ。
一方、曹操にとって漢中は辺境の郡に過ぎず、「鶏肋」(鶏の肋骨——捨てるには惜しいが、食っても旨くない)と評されたほどであった。劉備は「男子当戦、女子当運」として総力戦を展開したが、曹操はこの消耗戦に付き合う余裕がなかった。
三、曹操の高齢と後継問題
第三に、曹操の年齢である。建安二十四年、曹操はすでに65歳。『三国志』巻一『武帝紀』によれば、その死は翌年(建安二十五年正月)に迫っていた。長年の頭風(頭痛)に悩まされ、秦嶺越えすら奇跡的であった。前線で万一倒れれば、魏の政権基盤そのものが揺らぐ。後継者・曹丕の地位も未だ安定しておらず、曹操はリスクを冒す余地がなかった。
実際、定軍山で夏侯淵が戦死した際、劉備はこう言ったという:
『三国志』巻三十二『先主伝』:
「曹公雖来,無能為也,我必有漢川矣。」現代語訳:
「曹操が来ようとも、もはや何もできぬ。我は必ずや漢川(=漢中)を我がものとする。」
この言葉は、曹操の限界を正確に見抜いていた証左である。
曹操の「焦土戦略」:漢中・武都の大規模移民
曹操は漢中撤退に際し、単なる戦術的後退に留まらず、長期的な戦略的焦土化を実行した。建安二十年(215年)の張魯降伏直後から、漢中・武都の民を関中・洛陽・鄴へ強制移住させている。
『三国志』張既伝:
「魯降,既説太祖抜漢中民数万戸以実長安及三輔。」現代語訳:
張魯が降伏すると、張既は曹操に進言し、漢中の民数万戸を長安および三輔(関中三郡)へ移住させた。
『三国志』杜襲伝:
「百姓自楽出徙洛、鄴者八万余口。」現代語訳:
洛陽・鄴へ自発的に移住した民は八万余人もいた。
さらに、漢中争奪戦終結直前、張郃は最後の漢中民を内徙(内地への移住)させている。
『華陽国志』:
「二十四年、先主定漢中、斬夏侯淵。張郃率吏民内徙。」
武都でも、張既・楊阜らが六~七万落(戸)の氐族を扶風・天水へ移住させた。これにより、漢中~武都一帯は事実上の「無人地帯」と化し、蜀軍の北伐補給路は致命的に長大化した。
結論:「焦土」が三国の戦略を決定づけた
この曹操の「焦土戦略」は、その後の三国の軍事行動に深く影響を与えた。
- 関羽の襄陽・樊城攻め(219年)の際、劉備は北伐できなかった。
- 夷陵の戦い(222年)で劉備が呉を攻めたのは、北伐が不可能だったためである。
- 曹丕が劉備敗死後も蜀を攻めず、呉を攻めたのも、漢中・武都の「無人地帯」が補給を阻んでいたためである。
- 諸葛亮の北伐が常に補給に苦しんだのも、武都の人口が消失し、「祁山道」沿いに兵糧を調達できなかったためである。
曹操の「焦土」は、単なる戦術ではなく、三国時代の地政学的構造そのものを変えた戦略的決断であった。その影響は、数十年にわたり三国の運命を左右し続けたのである。