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曹操はなぜ名将から慎重な政治家に変わったのか?漢中戦役の曹操はなぜ弱気だった?

曹操が名将としての輝きを失い、漢中戦役においてはもはや政治家としての側面が前面に出たことは、歴然たる事実である。『後出師表』(諸葛亮)に記された評価は、まさに的を射ている。しかし、曹操に限らず、数百年後に現れたさらに卓越した君主・李世民(唐太宗)に至るまで、権位が高まれば高まるほど「身を惜しむ」傾向が顕著となる。

龍の歩み龍の歩み

曹操が名将としての輝きを失い、漢中戦役においてはもはや政治家としての側面が前面に出たことは、歴然たる事実である。『後出師表』(諸葛亮)に記された評価は、まさに的を射ている:

「曹操の智謀は、人に殊絶す。その用兵や、孫呉のごとし。」
(『三國志・諸葛亮伝』裴松之注引『漢晋春秋』)

しかし、曹操に限らず、数百年後に現れたさらに卓越した君主・李世民(唐太宗)に至るまで、権位が高まれば高まるほど「身を惜しむ」傾向が顕著となる。高位に立つ者ほど、安穏を重んじ、奇策を避けるようになる——これは歴史の常道である。

若き日の曹操は、まさに韓信・白起のごとき猛将であった。《三国志・武帝紀》には、その果敢な行動が克明に記されている:

「十餘萬衆、魏郡・東郡を略す。王肱、これを御する能わず。太祖(曹操)、兵を率いて東郡に入り、濮陽において白繞を撃ち、これを破る。」
「太祖、軍を頓丘に屯す。毒等、東武陽を攻む。太祖、兵を引きて西に入り山中に攻め入る。毒、これを聞き、武陽を捨てて還る。太祖、眭固を邀撃し、内黄において匈奴の于夫羅を撃ち、皆これを大破す。」

当時、曹操の軍は老兵少なく、新募の兵は未熟であり、「挙軍皆懼」(全軍が恐れた)という状況下であった。しかし曹操は:

「甲冑を被り、自ら将士を巡り、賞罰を明にし、衆は再び奮い立ち、隙を見て討ち、賊は次第に退く。」

さらには:

「奇伏を設け、昼夜を問わず会戦し、戦うごとに禽獲し、賊は遂に退走す。」

その冬、降卒三十余万、男女百余万口を受入れ、「その精鋭を収め、青州兵と号す」(『三國志・武帝紀』)。訓練もままならぬ新兵を率いながら、青州・兗州を平定し、寡を以て衆を破り、弱を以て強を挫く——まさに「反客為主」の典型であり、この時期の曹操は、疑いなく自ら戎機を執り、叛乱さえも自ら鎮圧していた。

《魏書》(王沈『魏書』、裴松之注引)には、更に驚嘆すべき逸話が記される:

「兵、謀して叛き、夜、太祖の帳を焼く。太祖、手に剣を執り、数十人を斬る。余皆、披靡して、乃ち営を出ず。其の叛かざる者、五百余人。」

その後の袁術討伐も、一見して「摧枯拉朽」(枯れ木を砕き、朽ち葉を散らすが如し)の勝利に見えるが、実際は依然として寡兵で衆敵に挑んでいた。官渡の戦いにおいても、烏巣劫営はすでに袁軍に察知され、前後から挟撃される危機にあった。その際、曹操は毅然として:

「左右或いは曰く、『賊騎、漸く近く、兵を分けてこれを拒むべし』と。公怒りて曰く、『賊は背後に在り、今更白すな!』士卒皆、殊死の戦いを為し、瓊等を大破し、皆これを斬る。」(『三國志・武帝紀』)

その後七年かけて河北を平定する間も、曹操は「不避鋒鏑、親臨一線」——『後出師表』に記される:

「祁連に危く、黎陽に偪(せま)らる」

とは、高幹・袁譚・袁尚らを討つ際の実録である。さらに遠征烏桓に至っては、新しく平定した河北と疲弊した青兗を後盾に、漢の衛青・霍去病の故事を模して白狼山に篝火を焚き、胡笳を奏でて敵を震慴させた。だが、曹操自身もその勝利が「天の助け」によるものと自覚していた:

「既に還り、前に諫めた者を科問す。衆、その故を知らず、皆懼る。公、皆これを厚く賞して曰く、『孤の前行、危きに乗じて僥倖を冀(のぞ)み、雖(いえ)どもこれを得たり。然れども、天の佐くる所なり。故に、これを常と為すべからず。諸君の諫め、万全の計なり。是以(これにより)相(あい)賞す。後、言を難(かた)しむること勿(なか)れ。』」(『三國志・武帝紀』裴松之注引『曹瞞伝』)

この頃の曹操には、後方で悠々と帷幄(いあく)を運ぶ余裕などなかった。自ら先陣を切らねば、天下は取れなかったのである。

ところが、河北平定後、特に丞相に就任し、荊州を「兵を血に染めず」(不血刃)に手中に収めて以降、曹操およびその周囲の心持ちは明らかに変化した。曹操は依然として親征は行うものの、もはや「霸府の主」、さらには「周文王」たらんとする自覚が強まり、己を危険に晒すことは極力避けた。潼関の危機も、馬超に「半渡而撃」(渡河途中を襲う)という時間差を突かれた偶発的なものに過ぎない:

「公、自ら潼関より北に渡る。未だ済(わた)らざるに、超、船に赴きて急戦す。校尉丁斐、牛馬を放って賊を誘う。賊、乱れて牛馬を取る。公、乃ち渡る。」(『三國志・武帝紀』)

魏公に封ぜられた頃、曹操はすでに五十代後半。その関心はもはや戦場ではなく、「身前・身後の事」——禅譲の準備へと移っていた。この時期、彼の用人的な限界も露呈する。外姓の将を信頼せず、曹氏・夏侯氏の一族に頼らざるを得なかったが、彼らの才幹は曹操とは雲泥の差であり、新たな領土を拓くには到底不十分であった。その結果、曹操の行動は次第に「暮気」に包まれ、あちこちで「投鼠忌器」(鼠を投げて器を壊すことを恐れる)の様相を呈するようになった。

  • 張魯征伐は、ほとんど運に頼った成功に終わり、その後「得隴望蜀」(隴を得て蜀を望む)の機会を逸し、劉備を討つ最後の好機を自ら手放した。
  • 漢中戦役では、夏侯淵の援軍要請に対し、長安に留まり進軍を躊躇し、夏侯淵の敗死を許す。後に自ら大軍を率いて出陣するも、形ばかりの遠征で草々と撤退した。
  • 関羽が「水淹七軍」を成し遂げると、曹操は一時、都を遷してその鋒を避ける(『三國志・武帝紀』)ことさえ考えた。

かつて烏巣で背水の陣を敷き、白狼山で篝火を焚いて胡笳を奏でたあの曹操は、荀彧の死とともに、もはやこの世には存在しなかった。残されたのは、ただ漢を簒奪せんとする、計算ずくの政治家・曹操のみであった。

李世民にも同様の傾向が見られる。天下を取る過程では、父・李淵の為に戦い、かつ太子の地位も視野に入っていたため、果敢に奇策を弄し、自ら敵を誘い、昼夜を問わず数百里を奔走して将を斬り旗を奪うなど、日常茶飯事であった。しかし玄武門の変後、皇帝として即位すると、三次にわたる高句麗遠征はいずれも「全功」を挙げ得なかった。皇帝たる者、もはや「アイドル的威厳」(偶像包袱)を背負い、奇兵を用いることをためらうようになったのである。

しかしながら、李世民は曹操とは異なり、自ら名将であるのみならず、人を用いる度量もまた人君の器量(人君気度)を備えていた。故に太宗一朝、唐はなおも拡張の時代を維持できた。対照的に、曹操は『後出師表』が指摘するように:

「一将の智有りて余りあり、万乗の才足らず」

——将としての才は卓越していたが、帝王としての器は不足していた。そのため、晩年の曹操は自ら東奔西走して「鍋を補う」(補鍋)しかなく、その限界は歴然としていた。


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