曹操の住民強制移住は、なぜ諸葛亮の北伐を失敗に追い込んだのか?
あまり語られることのない視点を一つ紹介したい。それは、曹操による大規模な住民強制移住政策が、その後の襄樊の戦い、夷陵の戦い、三路伐呉、広陵伐呉、さらには諸葛亮の北伐にまで直接的・間接的に影響を及ぼしたという点である。この政策の戦略的意義は、これまで著しく過小評価されてきた。
あまり語られることのない視点を一つ紹介したい。それは、曹操による大規模な住民強制移住政策が、その後の襄樊の戦い、夷陵の戦い、三路伐呉、広陵伐呉、さらには諸葛亮の北伐にまで直接的・間接的に影響を及ぼしたという点である。この政策の戦略的意義は、これまで著しく過小評価されてきた。
長期にわたる漢中・武都の移住作業
曹操は、漢中・武都における住民移住を、建安二十年(215年)に張魯を破って漢中を平定した直後から、漢中戦役(217–219年)終結時まで長期にわたって継続した。
まず、曹操が漢中を手中に収めた直後、張既(ちょうき)の進言により、漢中の住民を関中に移住させる政策が始まった。
《三国志・張既伝》:「従って張魯を征し、別に散関より入りて叛氐を討ち、其の麦を収めて軍糧と為す。魯降り、既、太祖に説きて漢中の民数万戸を抜きて長安及び三輔に実す。」
その後、杜襲(としゅう)が漢中移住の実務を担当し、洛陽・鄴(ぎょう)へ向けて八万余口もの住民を移住させた。
《三国志・杜襲伝》:「太祖還り、襲を駙馬都尉に拝し、漢中の軍事を留督す。綏懐開導して、百姓自ら楽んで洛・鄴に出徙(しゅつし)する者八万余口あり。」
武都への拡大と「無人緩衝地帯」の形成
さらに漢中戦役の最中、曹操は移住政策を武都郡にも拡大し、六~七万落(戸)に及ぶ氐族・漢人を関中・隴右へ強制移住させた。
《三国志・張既伝》:「太祖其の策に従い、乃ち自ら漢中より諸軍を引出し、既をして武都に之かしめ、氐五万余落を徙して扶風・天水の界に居らしむ。」
《三国志・楊阜伝》:「及び劉備、漢中を取って下弁を逼(せま)る。太祖、武都孤遠なるを以て、之を移さんと欲すれども、吏民土に恋ふるを恐る。阜、威信素より著しく、前後徙民・氐、京兆・扶風・天水の界に居らしむること万余戸、郡を小槐里に徙す。百姓襁負(きょうふ)して之に随ふ。」
そして、漢中戦役終結直前、曹操が漢中から全軍を撤退させる際、張郃(ちょうこう)に命じて最後の漢中住民を内陸へ移住させた。
《華陽国志》:「二十四年、先主漢中を定め、夏侯淵を斬る。張郃、吏民を率いて内徙す。」
こうして、漢中・武都一帯は事実上の「無人緩衝地帯」となり、劉備が関中へ進出する道を完全に閉ざした。
補給不能:蜀の北伐が不可能になった真の理由
劉備が北伐を試みるには、まず成都平原から漢中へ糧食を運び、さらに漢中から秦嶺を越えて関中へ進軍せねばならない。この二重の補給線は、戦略的に到底維持できないほどの負担である。
漢中戦役で疲弊した益州が、この負担に耐えられるはずがない。たとえ益州が無傷であったとしても、この補給コストを支えることは不可能だった。
しかも曹操は、関中に曹洪・張郃・曹休・曹真といった精鋭を配し、陳倉に屯駐させ、曹彰(そうしょう)を長安に据えていた。
《三国志・諸夏侯曹伝》:「是の時、夏侯淵陽平に没す。太祖これを憂ふ。真を以て征蜀護軍と為し、徐晃等を督して劉備の別将高詳を陽平に破る。太祖自ら漢中に至り、諸軍を抜出し、真をして武都に至らしめ、曹洪等を迎へて陳倉に還屯せしむ。」
《三国志・張郃伝》:「太祖乃ち漢中諸軍を引出し、郃は還って陳倉に屯す。」
《三国志・曹彰伝》:「太祖東還し、彰をして越騎将軍を行わしめ、長安に留まらしむ。」
この状況下で、劉備が陳倉道から陳倉を攻めても、鉄壁の守備に跳ね返される。斜谷道から長安を直撃しようとしても、関中平原で魏の騎兵に蹂躙されるだけである。
諸葛亮の北伐も「武都の空白」に苦しむ
では、諸葛亮のように祁山道から隴右を遮断する戦略はどうか? それもまた極めて困難だった。
なぜなら、その場合の補給ルートは「成都 → 漢中 → 武都 → 秦嶺越え → 隴右」となり、武都が無人地帯化されているため、途中で兵糧が尽きる可能性が極めて高かったからである。
実際、諸葛亮が北伐を開始する際、まず漢中に駐屯して軍糧を蓄える必要があった。
《三国志・諸葛亮伝》:「(建興)五年春、丞相亮、漢中に出屯し、沔北陽平石馬に営す。」
しかし、彼の「断隴」戦略も、武都郡が曹操の移住政策により荒廃していたため、現地調達が不可能であり、補給線は依然として脆弱だった。諸葛亮の北伐における補給危機は、「天池大沢の消失」などという地文的変化よりも、むしろ曹操による武都の住民強制移住にその根源があったのである。
夷陵・三路伐呉・曹丕の判断もすべてこの緩衝地帯ゆえ
このような戦略的地政学的構造を踏まえると、以下の疑問も自然に解釈できる。
- なぜ夷陵の戦いで劉備は魏ではなく呉を攻めたのか?
- なぜ夷陵敗北後、曹丕は蜀を攻めず呉を攻めたのか?
- なぜ劉備の死後、蜀が動揺しても曹丕は依然として伐蜀を避けたのか?
すべての答えは、曹操が築いた「漢中・武都の無人緩衝地帯」にある。この地帯は、蜀の北伐を物理的・戦略的に不可能にしていた。戦争を始める上で最も重要なのは兵糧であり、補給線である。曹操は、その本質を見抜いていたのだ。