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蜀漢はなぜ内乱が絶えなかったのか?夷陵の戦い後、蜀は本当に「無兵」だったのか?

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の後、劉備に従って天下を争い、長年にわたり戦場を駆け巡った蜀漢の精鋭軍は、その大半を失った。長年蓄積した軍需物資もことごとく焼失し、まさに「数十年の辛苦、一朝にして元の木阿弥(もくあみ)」といった有様であった。だが、それ以上に深刻だったのは、後方での反乱の連発であった。

龍の歩み龍の歩み

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の後、劉備に従って天下を争い、長年にわたり戦場を駆け巡った蜀漢の精鋭軍は、その大半を失った。長年蓄積した軍需物資もことごとく焼失し、まさに「数十年の辛苦、一朝にして元の木阿弥(もくあみ)」といった有様であった。

だが、それ以上に深刻だったのは、後方での反乱の連発であった。

まず漢嘉(かんか)太守・黄元(こうげん)が反乱を起こし、次いで南中の豪族・雍闓(ようかい)が挙兵し、さらに南蛮の王・孟獲(もうかく)が蜀の城邑を攻め掠めた。

《三国志・蜀書・諸葛亮伝》に曰く:
「先主薨後、南中諸郡皆叛。」

この三度にわたる反乱は、蜀漢内部の不安定を一層深刻化させた。

当時の蜀漢は、事実上「兵を出す余力なし」という状況に陥っていた。残された精鋭の一部は北方で魏(ぎ)を警戒し、もう一部は東方で呉(ご)を防いでいたためである。

この窮地を打開するため、諸葛亮(しょかつりょう)は黄元の乱を鎮圧した直後、即座に呉との和親を図り、再び魏に対抗する同盟を結んだ。

この措置には二つの大きな利点があった。

  • 第一に、東方の防備を緩め、その兵力を内乱鎮圧に回すことができた。これにより、さらなる反乱の連鎖を防ぐことができた。
  • 第二に、雍闓を孤立させることに成功した。雍闓は反乱後、呉に帰順していたが、蜀呉が再同盟を結ぶと、呉はただちに雍闓を見捨てた。
    《江表伝》に曰く:
    「呉は雍闓を軽んじ、蜀を重んじたり。」
    雍闓一人の価値など、蜀漢全体と比べれば到底及ばぬものであった。呉もまた、軽重を弁えていたのである。

黄元の乱は鎮圧されたものの、雍闓や孟獲に対しては、諸葛亮もなお手を出せぬ状態が続いていた。

それが転機を迎えたのは、建興三年(西暦225年)のことである。呉との和親により兵力を再編し、新たに軍を編成した諸葛亮は、遂に南中遠征を決行し、雍闓・孟獲を討つに至った。

地理が生んだ内乱の構造

この一連の出来事は、一つの重要な問題を浮き彫りにする。すなわち、蜀漢の内部は反乱が起きやすい構造を持っていたということである。その原因は、地理的条件にあった。

蜀の地は広大な平原ではなく、峻険な山地に囲まれた小規模な盆地が点在する地形である。通信手段が未発達で、交通も極めて不便な時代において、これらの盆地はまるで独立した小王国のごとく、地方豪族や野心家の跋扈(ばっこ)を許す温床となっていた。

《華陽国志》に曰く:
「南中諸郡、山川阻深、道路不通、夷漢錯居、易動難安。」

このような地勢ゆえ、単に治安維持だけでも莫大な兵力を要した。

なぜ諸葛亮は北伐を選んだのか?

にもかかわらず、孟獲を平定した後、諸葛亮は直ちに北伐へと舵を切った。なぜか?

それは、時間の経過とともに魏と蜀の国力差がますます拡大していくことが明らかだったからである。遅く打つより、早く打つ方がまだ望みがある——そう判断したのである。

当時の蜀漢の領土は約100万平方キロメートル、人口は100万程度。その大部分は山地・丘陵であり、農耕に適さぬ土地が多かった。

一方、曹魏の領土は約500万平方キロメートル、人口は1,000万を超え、広大な平原が広がり、豊かな穀倉地帯を形成していた。

《三国志・魏書・文帝紀》裴松之注引《魏略》に曰く:
「魏地四海の半、民戸百万、倉廩充実、兵甲精鋭。」

このような国力格差が拡大すれば、いずれ魏が蜀を併呑するのは避けられぬ運命であった。諸葛亮はその危機を痛感し、「攻めざるを得ざる」状況にあったのである。

結果は周知の通り、諸葛亮は六度祁山(きざん)に出陣したが、寸土も得ることなく、五丈原(ごちょうげん)において客死した。その最期は、実に壮烈であった。

「諸葛亮が賢くなかった」と言う者があれば、私はまず反対するであろう。

彼はよく理解していた。魏と蜀の国力差が臨界点に達した時、魏は必ず蜀を攻める——その時が来る前に、自ら攻め出さねばならない。それが「以進為退(進むことをもって退くとする)」の戦略であった。

《三国志・蜀書・諸葛亮伝》に評して曰く:
「亮、才識卓越、志大而運否。」

「謀事は人なり、成事は天なり」——諸葛亮はあらゆる知略を尽くしたが、天命には勝てなかった。

だが、その悲劇的な生涯こそが、後世に「千古の忠臣」「万世の師」としての名声を築き上げたのである。

今も成都(せいと)の武侯祠(ぶこうし)には、無数の参拝者が訪れ、その英名に敬意を表する。これこそ、一種の偉大なる成功ではないだろうか。


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