なぜ曹操は219年に天下統一を逃したのか?漢中戦役で曹操が敗れた本当の理由は?
建安二十二年(西暦217年)春、孫権が都尉の徐詳を遣わして曹操に降伏を請うたのち、天下統一を阻止しうる勢力は、益州の大半および荊州の三分の一を領する劉備ただ一人となった。しかしながら、劉備は建安二十二年十月より漢中攻めを開始してから建安二十三年(218年)末に至るまで、一貫して劣勢にあった。
建安二十二年(西暦217年)春、孫権が都尉の徐詳を遣わして曹操に降伏を請うたのち、天下統一を阻止しうる勢力は、益州の大半および荊州の三分の一を領する劉備ただ一人となった。
しかしながら、劉備は建安二十二年十月より漢中攻めを開始してから建安二十三年(218年)末に至るまで、一貫して劣勢にあった。
「飛と馬超が武都で曹洪・曹休に敗れた」
『三国志』巻三十六〈張飛伝〉
「陳式が馬鳴閣道にて徐晃に破られた」
『三国志』巻十七〈徐晃伝〉
「張郃が広石に屯して堅守したため、劉備はこれを攻め落とすことができなかった」
『三国志』巻十七〈張郃伝〉
さらに劉備の後方では、益州郪県において馬秦・高勝らが反乱を起こし、数万の兵を率いて資中県まで進撃した。
『三国志』巻三十二〈先主伝〉裴松之注引『典略』
また越巂郡の夷帥・高定も新道県を包囲する兵を派遣しており、劉備の内憂外患は極めて深刻であった。
『華陽国志』巻五
この情勢下、曹操が建安二十四年(219年)に漢中の劉備および江陵を守る関羽を破ることができれば、天下統一は現実のものとなるはずであった。
実際、曹操は建安二十三年九月、孫権の降伏からおよそ一年半を経て、関中に軍を進め、漢中への南下反攻を準備した。同時に曹仁を樊城に派遣し、江陵の関羽を攻撃すべく布陣させた。
『三国志』巻一〈武帝紀〉
建安二十三年十月には宛城で侯音の反乱が勃発し、建安二十四年春には夏侯淵が定軍山の戦いで戦死した。
『三国志』巻九〈夏侯淵伝〉
しかし曹仁は建安二十四年正月には早くも侯音を討ち平定し、曹操も夏侯淵の戦死直後に曹真を督将として徐晃らを率い、漢中の陽平関外に駐屯する高翔を撃破した。そして同年三月、曹操自ら大軍を率いて漢中に入り、軍勢の優位を保っていた。
『三国志』巻九〈曹仁伝〉
『三国志』巻九〈曹真伝〉
ところが、劉備は曹操の漢中侵攻後、軍を引き締めて要害に籠り、正面決戦を避けた。さらに趙雲・黄忠を遣わして曹操軍の虚を突き、その後方を襲撃して糧秣を焼き払った。
『三国志』巻三十六〈趙雲伝〉裴松之注引『雲別伝』
糧道を断たれた曹操は、同年五月、やむなく関中に撤退した。
一方、関羽に対しても曹仁は攻勢に出たが、逆に江陵から反撃を受け、建安二十四年七月には樊城に包囲された。
『三国志』巻三十六〈関羽伝〉
江陵から樊城へ陸路で進軍するには当陽・中廬・宜城・襄陽を経由せねばならず、水路でも漢津・荊門を通過する必要がある。関羽の迅速な反撃は、曹操軍の戦略を大きく狂わせたのである。
その後、劉備が漢中を奪取すると、かつて建安二十二年春に曹操に降伏していた孫権が、およそ建安二十四年夏頃、再び曹操に背いて合肥を攻撃した。
『三国志』巻四十七〈呉主伝〉
これにより、曹操による南北統一の機運は再び後退し、天下の分立はさらに長きにわたることとなった。