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曹操はなぜ赤壁の敗北後も天下統一のチャンスがあったのか?

曹操には天下を統一する好機が確かに存在した。しかし、彼はその機会を掴むことができなかった。多くの人々は、赤壁の戦いで曹操が甚大な損害を受け、その後南下する力がなくなったと誤解している。しかし、実際にはそうではない。「十四年春三月、軍を率いて譙に至り、軽舟を作り、水軍を治む。秋七月、渦水より淮水に入り、肥水を出でて合肥に軍を置く。」

龍の歩み龍の歩み

曹操には天下を統一する好機が確かに存在した。しかし、彼はその機会を掴むことができなかった。

多くの人々は、赤壁の戦いで曹操が甚大な損害を受け、その後南下する力がなくなったと誤解している。しかし、実際にはそうではない。

「十四年春三月、軍を率いて譙に至り、軽舟を作り、水軍を治む。秋七月、渦水より淮水に入り、肥水を出でて合肥に軍を置く。」

——『三国志・魏書・武帝紀』

この「十四年」とは建安十四年(西暦209年)のことで、赤壁の戦い(建安十三年、208年)の翌年にあたる。このとき、南郡の戦いが進行中であり、周瑜率いる孫劉連合軍が曹仁を攻めていた。

では、曹操はこのとき何をしていたのか?

上記の記録によれば、曹操は故郷の譙県に軍を進め、軽快な舟を建造し、水軍の訓練に力を入れていた。同年七月には渦水から淮水に入り、肥水を経由して合肥に駐屯している。

赤壁の戦いが終わっても、曹操は即座に南下を断念したわけではなかった。曹仁が江陵を放棄したのは同年末であり、その直後に曹操は再び譙県に戻っている。

赤壁の戦いおよびそれに続く南郡の戦いを通じて、曹操は一将たりとも失っていない。唯一亡くなった李通も、戦死ではなく病没である(『三国志・李通伝』)。

曹操が赤壁で失ったのは、主に一般兵士および荊州から降伏した兵士たちであった。戦前の状況と比べれば、曹操は依然として軍事的要衝である襄陽・樊城を掌握していたのである。

つまり、曹操には南下継続の実力が十分にあった。孫権・劉備を討つためには、まず水軍と戦船の整備が不可欠だった。実際、南郡の戦いが進行中の建安十四年、曹操はすでに水軍の再編に着手していた。

しかし、水軍の整備には時間がかかり、短期間での解決は困難だった。そのため曹操は戦略の方向を西に転じ、関中への進出を決意する。

建安十六年(211年)、曹操は張魯討伐を口実に軍を関中に進め、これに韓遂・馬超ら十部の軍閥が連合して反発した。こうして曹操と関中諸将との戦いが始まった。

興味深いことに、曹操の張魯討伐という行動は、張魯を脅かすどころか、益州の劉璋を震え上がらせた。劉璋は同年、劉備を益州に招き入れ、張魯に対抗させようとした。これは、曹操に先を越される前に漢中を確保したいという焦りからだった。

曹操が関中を平定した頃、劉備はすでに漢中入りを果たし、その後劉璋との戦いに突入。三年かけて益州を手中に収めた。

劉備が益州を制圧したことを知った曹操は、ようやく事態の重大さに気づき、建安二十年(215年)、自ら漢中へ遠征して張魯を降伏させた。

実は、この漢中攻略の直後に、曹操にとって絶好の機会が訪れていた。それは、漢中を拠点としてさらに南下し、益州を攻め取ることであった。

当時、劉備は荊州南部の三郡をめぐって孫権と対立しており、自ら五万の兵を率いて荊州へ向かっていた。そのため益州は兵力が手薄で、統治もまだ安定していなかった。

まさにこのときこそ、益州攻略の千載一遇の好機であった。

「今、劉備は遠征中で、益州は空虚なり。急いで攻めれば、必ず破るべし。」

——『晋書・宣帝紀』『三国志・劉曄伝』

ところが、曹操はこう答えた。

「人、足らざるを苦とす。既に隴を得たり、復た蜀を欲すとは!」

——『後漢書・岑彭伝』

これが「得隴望蜀(とくりょうぼうしゅ)」という故事の由来である。かつての果断で大胆な曹操が、このような消極的な発言をするとは、誰が予想しただろうか。

七日後、曹操は自らの判断を悔い、再び劉曄に「今から攻めても間に合うか?」と尋ねた。劉曄は即座に答えた。

「機は既に失せり。今攻めれば、必ず敗る。」

こうして曹操は撤退を決意した。

明らかに、赤壁の敗北以降、曹操は天下統一への雄心を失いつつあった。

当時の状況を考えれば、水軍の劣勢を短期間で覆すのは困難だったため、曹操が別の道を模索したのは理解できる。すなわち、まず関中を制し、次に漢中を抑え、さらに益州を占領して、そこを水軍の拠点とする戦略である。

益州は長江の上流に位置し、水軍の訓練や戦船の建造に北方より遥かに適している。また、長江を下って東南へ進軍する方が、北から長江の天陜を強攻するよりはるかに容易である。

実際、後の西晋が東呉を滅ぼした際も、まさにこの戦略が採用された(『晋書・武帝紀』)。

このような絶好の機会を曹操が見逃したことは、赤壁敗北後における最大の失策と言えるだろう。

もちろん、曹操にも理由はあった。彼は「挾天子以令諸侯(天子を抱きかかえて諸侯を号令す)」という立場ゆえ、長期間、許都(政治中枢)を離れることができなかった。献帝は傀儡に甘んじておらず、その周囲には漢室忠臣たちが蠢いていた。

晩年の曹操は、かつての鋭気を失い、「前も狼、後も虎」と恐れて、かつての烏桓遠征(建安十二年)のような大胆な作戦を取ることができなくなっていた。

さらに、曹操は政治的に魏公、さらには魏王と称し、事実上の独立政権を築いていた。周囲は誰もが「曹操は帝位を簒奪する」と見抜いており、朝廷内での政治闘争は激化の一途をたどっていた。このような状況下では、曹操が安心して遠征に専念できるはずもなかったのである。


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