曹操は赤壁の戦いでなぜ敗れたのか?荀彧は本当に空の食器で自殺したのか?
赤壁の戦いは、建安十三年(西暦208年)の冬に起こった。「十三年春正月,公還鄴,作玄武池以肄舟師。……冬,公至赤壁,與備、瑜等戰,不利,乃引還。」——《三国志・武帝紀》曹操はこの戦いで周瑜・劉備連合軍に敗れ、以後、南下統一の機会を永久に失うことになる。敗戦後、彼は曹仁を江陵に、張憙を合肥に残し、自らは故郷である沛国譙県へと帰還した。
赤壁の戦いは、建安十三年(西暦208年)の冬に起こった。
「十三年春正月,公還鄴,作玄武池以肄舟師。……冬,公至赤壁,與備、瑜等戰,不利,乃引還。」
——《三国志・武帝紀》
曹操はこの戦いで周瑜・劉備連合軍に敗れ、以後、南下統一の機会を永久に失うことになる。敗戦後、彼は曹仁を江陵に、張憙を合肥に残し、自らは故郷である沛国譙県(現在の安徽省亳州市)へと帰還した。これは単なる退却ではなく、「真正の帰郷」であった。
翌建安十四年(209年)春三月、曹操は譙に至り、「軽舟を作り、水軍を治む」(《三国志・武帝紀》)。赤壁敗北からわずか数か月後、彼はすでに水軍再編の準備を始めていたのである。
曹操はすでに半生を戦場で過ごしていた。袁術を伐ち、陶謙を征し、張綉と戦い、呂布を滅ぼし、官渡の戦いで袁紹を破り、河北を平定し、烏桓を北征し、ついには荊州まで南下した。その過程は決して平坦ではなかったが、いずれも最終的には勝利に結びついていた。
ただ一度だけ——赤壁にて周瑜に敗れたとき、曹操は「徹底的に」敗北したのである。
故郷は、大きな挫折を経験した者にとって、しばしば心の拠り所となる。しかし、曹操の譙県滞在には、単なる感情的慰藉以上の戦略的意味があった。
豫州は江淮(長江・淮河一帯)に近く、ここを拠点とすれば、合肥の防衛を支援しつつ、将来的な南征の足場とすることも可能だった。
同年秋七月、曹操は「渦水より淮水に入り、肥水を出て、合肥に軍を置く」(《三国志・武帝紀》)。水軍訓練を終えたわずか四か月後、彼は再び前線へと向かったのである。
十二月、孫権が合肥を攻めるが、これは「雷鳴は大きいが雨は少ない」(雷声大雨点小)攻勢に終わり、数か月の対峙の末に撤退する。曹操は合肥の防備を整えた後、再び譙県へと戻った。
建安十五年(210年)は、乱世の中でも珍しく平穏な一年であった。
曹操はこの年、譙県に留まり、屯田を推進し、人材を招攬し、「唯才是挙」(才能ある者を挙げよ)という選挙方針を打ち出した。
またこの年の冬、彼は『自明本志令』(自らの志を明らかにする令)を著し、天下に自らの本懐を示した。
「孤始義兵,討董卓,意在匡扶漢室……然少時自以本非岩穴知名之士,恐為俗所笑,故常自損抑。」
彼は孝廉に挙げられて出仕したが、名声も才も平凡で、家柄も芳しくないと考え、「太守になれれば満足」と思っていたという。しかし霊帝末年、宦官専横の世にあって、若気の至りで常侍(宦官)を怒らせ、家門に禍を招うことを恐れ、官を辞して故郷から五十里離れた地に隠棲した。
だがやがて、「郷里の五十歳の老翁が尚も書を読み、国に忠を尽くそうとしている」姿を見て、自らの隠遁を恥じ、再び出仕した。
典軍校尉となった彼は、涼州の賊を討ち、功を立てて「征西将軍」となり、死後は墓碑に「漢故征西将軍曹侯之墓」と刻まれることを最大の望みとしていた。
しかし、董卓の乱が起こり、国家は崩壊の危機に瀕した。
曹操は義兵を挙げ、董卓を討とうとしたが、「殺敵八百、自損一千」の苦戦が続き、兵力は数千人にとどまった。彼はこれを「己の才の限界」と嘆いた。
その後、青・徐の黄巾三十万が兗州に侵入すると、曹操はこれを破り、降伏させ、衆議により兗州牧に推された。
袁術が九江で僭号を称し、諸将がこれに従ったが、曹操はその四将を討ち取り、袁術を窮地に追い込み、「発病して死す」(《三国志・武帝紀》)。
さらに、河北に雄踞する袁紹に対しても、曹操は「大丈夫は国のために死すべき」と決意し、官渡の戦いで奇跡的に勝利を収めた。
「設使国家無有孤,不知当幾人称帝、幾人称王。」
「天下に孤がいなければ、どれほど多くの者が帝を称し、王を称したことか」——この一文に、曹操の自負と使命感が凝縮されている。
建安十六年(211年):関中遠征と「仮途滅虢」の策
太原の商曜が反乱を起こすと、曹操は夏侯淵・徐晃を派遣してこれを平定した。
同年三月、漢中の張魯討伐のため、鍾繇・夏侯淵を派遣するが、その途上、関中の諸将は「これは仮途滅虢(かとめっかく)の計に違いない」と疑い、十将が連合して反乱を起こした。
曹操は七月、譙県より出兵し、三か月で関中を平定。夏侯淵を残して自らは北還した。
建安十七年(212年)春正月、曹操はようやく鄴城に帰還する。
赤壁敗北(208年)から実に四年ぶりの帰還である。
威望が失墜したため、彼はこの間、政治的中心地である鄴城に戻ることをためらっていた。関中平定という「武功」によって再び権威を回復し、ようやく帰還を果たしたのである。
朝廷はこれに応じ、曹操に「贊拝不名、入朝不趨、剣履上殿」(礼拝の際名を呼ばず、朝廷に入るとき急がず、剣と履物を身に着けて殿上に上がる)という、蕭何に与えられた前例に倣った特権を与えた。
——《三国志・武帝紀》
しかし曹操はこれに満足せず、「魏公」への進爵を画策する。
ところが、この構想は内部で大きな抵抗に遭う。特に、荀彧(じゅんいく)の反対が決定的だった。
「十七年、董昭等が太祖に魏公進爵、九錫備物を勧め、密かに彧に諮った。彧は『太祖は本、義兵を挙げて朝を匡(たす)け、国を寧(やす)んじんとした。忠貞の誠を秉(たも)ち、退譲の実を守るべきだ。君子は人を愛して徳を以てす。宜しくこれあるべからず』と答えた。太祖はこれにより心に平(なだ)らかならず。」
——《三国志・荀彧伝》
荀彧は曹操創業の功臣であり、河南士族の指導者でもあった。彼はかつて、都を洛陽から許昌(自らの故郷)に移すことを強く主張した人物である。
曹操が「魏公」となることは、実質的に政治中枢を河北・鄴城に移すことを意味し、漢室の象徴である許昌を空洞化させることになる。荀彧にとって、これは許容できないことだった。
実は、この問題は以前から存在していた。
建安九年(204年)、曹操が鄴を落として冀州牧となると、側近が「古制に復して九州を置き、冀州を広大ならしめよ」と進言した。
「太祖将にこれに従わんとす。彧曰く、『若是(かくのごとく)なれば、冀州は河東・馮翊・扶風・西河・幽・并の地を得ん。所奪うる者衆し。……今、これを冀州に属さしむれば、皆心を動かさん』と。太祖遂に九州の議を寝(ね)す。」
——《三国志・荀彧伝》
荀彧の反対により、曹操はこの構想を断念せざるを得なかった。
そして今、再び「魏公」問題で衝突が起きる。
同年十月、曹操は孫権討伐のため南征を開始する。これが第一次濡須口の戦いである。
注目すべきは、この遠征に荀彧が随軍したことだ。
これまで曹操の出征に際し、後方を預かっていたのは常に荀彧であり、軍中に同行するのはこれが初めて、かつ最後だった。
軍が寿春に至ったとき、荀彧は病に倒れる。
曹操は彼を寿春に残し、自らは濡須口へ向かう。
その後、荀彧は寿春で死去する。
《三国志》は「病没」と記すが、
《献帝春秋》および《後漢書》はこう伝える:
「太祖が食器を送り、蓋を開けば中は空なり。彧はこれを悟り、毒を服して死す。」
建安十八年(213年):九州復置と魏公就任
春正月、曹操は濡須口に進軍し、孫権の江西営を破り、都督・公孫陽を捕らえるが、ほどなく撤軍する。
撤軍の際、有名な言葉を残す:
「生子当如孫仲謀。」(息子は孫権のような者であってほしい)
しかし、この遠征の真の目的は孫権打倒ではなかった。
内部の政治矛盾を戦争で一時的に封じ、反対派(特に荀彧)を排除し、魏公進爵への道を整えること——それが曹操の真意だった。
撤軍の途中、曹操は驚くべき詔を出す:
「十四州を併せて、復た九州と為す。」
——《三国志・武帝紀》
かつて荀彧が阻止した「九州復置」が、今や強行されたのである。
同年四月、曹操は鄴城に帰還。
五月、遂に魏公に進爵し、九錫を受ける。
荀彧の死後わずか数か月で、曹操はすべての障壁を乗り越えた。
結び:赤壁以後の十二年
赤壁敗北後、曹操はもはや天下統一の夢を諦めていたわけではない。
しかし、彼の残された寿命はわずか十二年。
その間に、漢中の戦い(215–219年)、襄樊の戦い(219年)という大規模な戦役を経験せねばならなかった。
彼が『自明本志令』を著し、譙県で水軍を再編し、関中を平定し、荀彧を排除し、魏公となった一連の行動は、すべて「内部安定」と「権威回復」のための戦略的選択だった。
そして、そのすべてが、赤壁の敗北という「転換点」から始まったのである。