献帝劉協はなぜ「選ぶ権利のない皇帝」と呼ばれるのか?董卓は本当に悪人だったのか?
孝献皇帝劉協(りゅう きょう)は、霊帝の中子なり。『後漢書・孝献帝紀』に曰く:「孝献皇帝諱協、霊帝之中子也。母王美人。」その生母は王美人(おう びじん)、本名を王栄(おう えい)といい、前五官中郎将王苞(おう ほう)の孫、名士王章(おう しょう)の娘なり。名門の出にして、容姿端麗、举止雅やか、体つきも均整を極め。
孝献皇帝劉協(りゅう きょう)は、霊帝の中子なり。
『後漢書・孝献帝紀』に曰く:「孝献皇帝諱協、霊帝之中子也。母王美人。」
その生母は王美人(おう びじん)、本名を王栄(おう えい)といい、前五官中郎将王苞(おう ほう)の孫、名士王章(おう しょう)の娘なり。名門の出にして、容姿端麗、举止雅やか、体つきも均整を極め、霊帝劉宏(りゅう こう)の寵愛を一身に集めたり。
霊帝は、東漢以来繰り返されてきた外戚専権の呪縛を打ち破らんと志し、功臣の家柄たる宋皇后を廃し、平民の女子を皇后に立てんと欲した。その思惑は、「外戚の家が門閥を有せざれば、専横の患いを免れん」というものなり。
『後漢書・皇后紀』に載せり:「帝以宋氏無子、且門族強盛、恐為後患、遂廢之。」
しかるに、王栄は皇后の位に就かず、代わって南陽の屠夫の娘、すなわち何皇后(か こうごう)が立たれたり。
ところが霊帝は知らざりき——何氏一族は十常侍の郭勝(かく しょう)と通じ、賄賂をもって宦官の力を借りて宮中に進んだことを。
『後漢書・何進伝』に曰く:「何氏出自屠家、因郭勝得入掖庭。」
何皇后は宮中において宦官と結託し、専横無忌(せんおうむき)なり。
王美人が劉協を懐妊した際、何皇后の嫉妬を恐れ、自ら堕胎を試みたり。
『後漢書』に記す:「美人懐妊、畏后妬、乃服藥欲去之。」
然るに薬効なく、夢に日を背負いて歩む(ひをせおいてあるく)との奇瑞あり、遂に子を産むことを決意す。
『後漢書』曰く:「既而夢負日而行、遂決意生之。」
中平六年(西暦181年)、劉協誕生す。
これを見た何皇后は、王美人が皇子を得たれば己の地位を脅かされんと恐れ、毒を王美人の産後の薬湯に混入せり。王美人はこれを飲み、即死す。
『後漢書』に曰く:「后酖殺美人。帝往視、見其手足青黒、知中毒、大怒。」
霊帝は激怒し、何皇后を即座に廃そうとす。
然るに何皇后は事前に巨金をもって宦官曹節(そう せつ)らを買収しており、彼らが一斉に跪いて皇后を救うよう請願す。
霊帝はその圧力に抗し得ず、何皇后を赦免す。
『後漢書』曰く:「宦者共為之請、帝意乃解。」
劉協はまだ満月にも満たざる嬰児なり。霊帝は、再び暗殺の危険に晒されんことを恐れ、永楽宮(えいらくきゅう)へと移し、自らの生母・董太后(とう たいごう)に託す。
『後漢書』に曰く:「帝懼、乃養協於永楽宮、属之董太后。」
この頃、何皇后の子・劉弁(りゅう べん)は五歳なり。
実は劉弁誕生以前、霊帝の皇子はことごとく夭折しており、後宮の闘争は熾烈を極めていた。
故に何皇后は劉弁を宮中で育てず、道士史子眇(し しびょう)の家に匿い、「史侯」と称してその本名を隠せり。
同じく、董太后に育てられた劉協は「董侯」と呼ばれた。
群臣は劉弁を太子に立てんと請願す。
然るに霊帝は「弁軽佻無威儀、不足以為人主」(『後漢書』)と評し、太子に適さずと判断す。
その真の憂慮は、何進(か しん)——皇后の兄——が既に大将軍として士族と結び、袁隗(えん かい)を首班とする勢力を形成しつつあることなり。
『後漢書・何進伝』に曰く:「進素與袁氏厚、士人多附之。」
霊帝は、劉協を後継とせんと密かに謀り、宦官蹇碩(けん しゅく)を心腹として西園八校尉を設置す。
蹇碩を上軍校尉とし、大将軍何進すらその指揮下に置かしむ。
『後漢書』曰く:「以碩為上軍校尉、統八校尉、連大将軍亦属焉。」
また、西涼の韓遂(かん すい)、辺章(へん しょう)が反乱を起こすと、霊帝は何進を遠征させ、洛陽から遠ざけんと図る。
然るに何進はその意図を察し、袁紹(えん しょう)を青・徐二州に派遣し、「黄巾残党討伐中につき、帰還後でなければ出征できず」と上表して、出兵を遅延せり。
中平六年(189年)
霊帝は太子を定めぬまま崩御す。
このとき、劉弁十三歳、劉協八歳なり。
蹇碩は単独で「霊帝臨終の際、劉協を我に託された」と宣言し、宮中に伏兵を設けて何進を誅殺せんと企む。
然るに何進は蹇碩の側近・潘隠(はん いん)を通じてその計を察知し、危うく脱出。
直ちに反撃に転じ、蹇碩を誅し、さらに董太后・董重(とう ちょう)をも排除す。
『後漢書』曰く:「進遂誅碩、又逼董太后、董重自殺。」
かくして八歳の劉協は、母を毒殺され、祖母は流罪の途上にて死去、叔父は自刃——血縁ある者はただ一人、兄・劉弁のみなり。
しかもその「競争」は、二人の意思に非ず。ただ背後の勢力に操られし傀儡同士の運命なり。
同年四月、劉弁が即位し、少帝と称す。
劉協は勃海王、後に陳留王に封ぜらる。
然るに間もなく、董卓(とう たく)が並州より上洛す。
その背景は、何進と何太后の分裂——兄は士族(袁隗)に、妹は宦官(十常侍)に与する——にあり。
袁隗は董卓を「棋子」として用い、宦官勢力を一掃せんと図る。
董卓はかつて袁隗の府吏なりしが、戦功を積み、並州牧にまで登り詰めたり。
宦官は何進の「辺軍召還」を知り、宮中に伏兵を設けて何進を誅殺。
袁術(えん じゅつ)が九龍門を焼打ち、宮中に突入。
宦官は劉弁・劉協を連れて北邙山(ほくぼうざん)へ逃亡す。
追撃の兵至り、張譲(ちょう じょう)自害す。
まさにその時、董卓が邙山にて二帝を発見。
洛陽に還りし後、董卓は「董太后の一族」を称し、政治的正統性を主張す。
さらに「霊帝遺詔あり、劉協を太子に定む」と偽って、劉弁を廃し、劉協を帝位に就けしむ。
『後漢書』曰く:「卓誣称有遺詔、立陳留王協為帝。」
かくして、死の淵より蘇りし劉協は、皇帝となる。
董卓はさらに、何太后を毒殺し、何苗(か びょう)を掘り起こして鞭屍(べんし)す。
「以母還母、以舅還叔」——これは復讐ではなく、血の正義なり。
後世の士大夫は董卓を「魔王」と呼ぶ。
然るに劉協の目には、董卓こそ忠臣なり。
王允(おう いん)も呂布(りょ ふ)も、関東の諸侯も——彼らは皆、董太后一党を滅ぼした袁隗・何進の同類なり。
今さら「清君側」などと称して董卓を討つなど、欺瞞に過ぎず。
劉協が董卓に相国の位を与え、「贊拝不名、入朝不趨、剣履上殿」(三公の礼遇)を許すは、当然なり。
諸葛亮を「相父」と呼ぶ劉禅(りゅう ぜん)と、何が違うのか?
恩義の深さこそが、君臣の真の尺度なり。
董卓敗れて長安に退く。
その実力圏は並州・涼州に限られ、財政窮乏のため、墓を掘り、劣悪銭(小銭)を鋳造す。
曹操が「摸金校尉」を設け、劉備が「直百銭」を発行せし如く、乱世の統治者は皆、非常の策を用いる。
然るに董卓の下では、並州勢(王允・呂布)が不満を募らせ、遂に董卓を誅殺す。
『後漢書』曰く:「允與布共誅卓。」
董卓死後、劉協の苦難は始まる。
王允は袁隗の故吏なり。袁紹は劉協を認めず、関東では依然として劉弁を正統とせんとす。
承認すれば、霊帝遺詔の真偽が問われ、袁・何進の行為は「謀反」となる。
四世三公の袁氏が、自らの手で人設を崩すことはできず——政治的正統性のジレンマなり。
王允は間もなく李傕(り かく)・郭汜(かく し)ら涼州軍に討たれ、劉協は再び傀儡と化す。
李・郭は董卓とは異なり、無謀・無策・内訌(ないこう)を繰り返し、劉協は「物」のごとく争奪される。
『後漢書』に曰く:「傕等争權、帝幾為流矢所中。」
わずか十一歳の天子、四年の間、飢えと恐怖に晒されしも、常に洛陽帰還を志す。
十四歳、劉協は遂に脱出を決行す。
その中心は、董承(とう しょう)——董卓の女婿・牛輔(ぎゅう ふ)の部将にして、自らを「董太后の甥」と称す者なり。
白波軍(黄巾残党)の楊奉(よう ほう)・韓暹(かん せん)と連携し、死線を越えて洛陽に至る。
然るに洛陽は董卓により焼かれ、瓦礫の間に大臣餓死す。
勤王の詔を発すも、応ずる者なし。
唯、曹操(そう そう)のみが駆けつけ、劉協を許県(きょけん)へ迎えんとす。
袁紹が「皇帝の価値を知らざりし」と非難されるが、彼が立てたのは劉弁なり。劉協は仇敵董卓が立てし帝なり。
承認すれば、自らの過去を否定せざるを得ず——政治的自殺なり。
十五歳の劉協、ただ「飯を食いたい」一心にて、許都へ遷都す。
かくして、金糸の籠の中の小鳥と化す。
劉協は181年生まれ、234年に崩御す。
諸葛亮と同年生、同年死。
その生涯を一言で要すれば——「選ぶことなし」。
東漢三代目以降、外戚専権・宦官干政・士族抗争の三重構造が王朝を蝕みたり。
然るに東漢が長く存続せしは、宦官が皇権の最後の盾となりしゆえなり。
『後漢書』に曰く:「宦者親近帷幄、忠於所事。」
宦官は家柄なく、子孫なく、その権力は皇権に依存し、死とともに消え去る。
故に、十常侍の滅亡は、すなわち東漢皇権の終焉なり。
衣帯詔(いたいのしょう)で曹操を倒さんとした劉協。
成功せば如何?
董承は外戚なり。成功すれば、新たな董卓・王允・曹操となるのみ。
権力の構造は、人を変えても変わらぬ。