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廖立の批判はただの恨み言だったのか?なぜ廖立は諸葛亮の人事を「凡俗」と非難したのか?

廖立(りょうりつ)が漏らしたあの不満は、単なる個人的な怨嗟の吐露というより、むしろ陳寿(ちんじゅ)が史家として、さらには蜀漢の遺臣として、蜀漢が盛極まり衰え始めたその転換期を深く省察し、思索した結果であると言える。なぜそう言えるのか。それは廖立の発言が、単に事実をねじ曲げて罵倒するようなものではなく。

龍の歩み龍の歩み

廖立(りょうりつ)が漏らしたあの不満は、単なる個人的な怨嗟の吐露というより、むしろ陳寿(ちんじゅ)が史家として、さらには蜀漢の遺臣として、蜀漢が盛極まり衰え始めたその転換期を深く省察し、思索した結果であると言える。

なぜそう言えるのか。それは廖立の発言が、単に事実をねじ曲げて罵倒するようなものではなく、陳寿が『三国志』の他の箇所で記した記述と互いに裏付け合うものだからである。

「後、丞相掾李邵・蒋琬至り、立計りて曰く、『軍は遠く出ずるべし。卿等はその事をよく慎むべし。昔、先帝(せんてい)は漢中を取らず、走って呉人と南三郡を争い、遂に三郡を呉人に与へ、徒らに吏士を労し、益なくして還りき。既に漢中を失ひ、夏侯淵・張郃をして巴(は)に深入せしめ、幾(こ)そ一州を喪はんとす。後、漢中に至りて関侯(かんこう)身死して孑遺(けつい)なし。上庸(じょうよう)覆敗し、徒らに一方を失ふ。是れ羽(う)が勇名を怙恃(こじ)し、作軍に法なく、直に意を以て突(とつ)するのみ。故に前後数度、師衆を喪ふなり。向朗(こうろう)・文恭(ぶんきょう)は凡俗の士なり。恭は治中に在りて綱紀なし。朗はかつて馬良兄弟を奉じ、聖人となす。今、長史となり、素より道に合ふ能はず。中郎郭演長(かくえんちょう)は人随ひの士なり。大事を経るに足らずして侍中と為す。今、弱世なり。此の三人を任ずるは、然らず。王連(おうれん)は流俗にして、苟(かりそめ)に掊克(ほうこく)を為し、百姓を疲弊せしめ、今日に至らしむ』」

——『三国志』巻四十〈廖立伝〉

1. 「昔、先帝は漢中を取らず、走って呉人と南三郡を争い…」

これは建安二十年(215年)、劉備が漢中を顧みず、五万の兵を率いて東下し、孫権と荊南三郡(長沙・零陵・桂陽)を争った出来事を指す。

一説には、孫権が背信的行為をし、荊州三郡を奪ったため、劉備はやむを得ず東征したとされる。しかし、なぜ孫権がそのような行動に出たのか、その背景を問うべきである。

そもそも「荊州借与」問題は、果たして円満に処理されていたのか?

「劉備が益州を取ると、孫権は使者を遣わして荊州諸郡の返還を求めたが、劉備は曰く、『須く涼州を得て、乃ち荊州を以て相与(あた)う』と。」

——『江表伝』

劉備自身、「荊州を借りた」という事実を否定してはいない。彼が提示した条件は「涼州を手に入れてからでなければ、荊州は返さない」というものだった。

孫権側は、劉備が劉璋攻めで窮地に陥っていた最中に背後を突くようなことはせず、むしろ劉備が益州を安定的に掌握した後に、外交的に荊州返還を求めてきたのである。

「今、既に益州を得て、返還の意なし。但(ただ)三郡を求むるに、亦(また)従わず。」

——『三国志』巻五十四〈魯粛伝〉

孫権側は、最初から武力行使を意図していたわけではない。むしろ譲歩し、「三郡だけでも返してほしい」とまで言い下げた。それすら劉備は無視した。

関羽が孫権が派遣した三郡の官吏を追い払った後、孫権は遂に軍を動かし、三郡を占領した。これに怒った劉備が五万の大軍を率いて東征したが、結果は如何に?

曹操が漢中に侵攻したため、劉備は急遽西還を余儀なくされ、最終的に「湘水の盟(しょうすいのめい)」を結び、荊南二郡を孫権に割譲せざるを得なかった。

結局、劉備の東征は「徒労に終わっただけ」であり、しかもその過程で孫劉同盟の信頼関係は決定的に損なわれた。

「備と権と、遂に隙(すき)を生じ、盟好(めいこう)を絶つ。」

——『三国志』巻四十七〈呉主伝〉

この戦略的失策は、明らかに劉備側に責任がある。これは「隆中対」の失敗ではない。諸葛亮(しょかつりょう)は常に「東和孫権(とうわそんけん)」を提唱していたが、劉備・関羽は統一戦線を築くどころか、閉鎖的かつ排他的な態度を取り続け、魯粛のような親劉派すらも失望させたのである。

2. 「既に漢中を失ひ、夏侯淵・張郃をして巴に深入せしめ、幾そ一州を喪はんとす」

これは建安二十年前後、曹操が漢中を制圧し、張郃が宕渠(とうきょ)まで南下して民を移住させた事件を指す。

確かに「幾そ一州を喪はん」という表現は誇張ではあるが、関羽の「威震華夏」や「洪河以南、復た国家の所有と為らず」(『三国志』関羽伝)といった表現も同様に修辞的である。

張郃の南下は、単なる国境紛争ではなく、益州の玄関口たる漢中を失った上に、その内奥である巴郡まで敵が侵入したという、まさに「登堂入室」の危機であった。

3. 「後、漢中に至りて関侯身死して孑遺なし。上庸覆敗し、徒らに一方を失ふ」

これは多くの研究者が指摘する通り、劉備が漢中を遅れて奪還したことが、関羽の敗北を招いた一因である。

曹操が漢中を占領した後、劉備は建安二十二年(217年)から二年近くをかけて漢中を奪回したが、その際、曹操は「民を尽くして北へ移す」(『三国志』武帝紀)という焦土政策を採っており、劉備は「地を得て民を得ず」の状態に陥った。

「男子当に戦い、女子当に運ぶ。」

——『三国志』巻三十二〈先主伝〉

この極限状態の下で、関羽の襄樊(じょうはん)攻めを支援する余力はなかった。結果、関羽は孤立無援のまま敗死し、上庸も陥落した。

4. 「是れ羽が勇名を怙恃し、作軍に法なく…」

関羽に対するこのような批判は、古来より多い。

蜀漢の公式評価でも、関羽の諡号(しごう)は「壮繆侯(そうびこう)」であり、「名と実と爽(そう)す、是を繆(び)と曰う」(『逸周書』諡法解)とされる。

また、楊戯(ようぎ)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』にはこうある:

「交待無礼、並びに奸慝(かんとく)を致す。悼むらくは軽慮、身を隕(おと)して匡国(きょうこく)す。」

陳寿自身も『三国志』で「羽は剛にして自ら矜(ほこ)り、短を以て敗る」と評している。

5. 向朗・文恭・郭演長(郭攸之)への批判

廖立は、これら三人を「凡俗」「無綱紀」「備員(そなえいん)」と酷評している。

特に郭攸之については、陳寿が『三国志』巻三十九で「備員而已(そなえいんのみ)」と記しており、その評価は一致している。

向朗については、馬良兄弟との親密な関係が知られ、後に馬謖(ばしょく)を匿ったことでも有名である。『三国志』巻四十一〈向朗伝』に曰く:

「朗は私的に謖を匿い、軍令に背く。」

このような人物が丞相長史に任じられたことは、廖立の目には「弱世に才を任ずべし」という原則に反すると映ったのであろう。

この点、廖立の用人観は、諸葛亮の「志慮忠純(しりょちゅうじゅん)」「貞良死節(ていりょうしせつ)」という道徳重視型とは明らかに対照的である。

実は、法正(ほうせい)・龐統(ほうとう)も廖立と同様の立場を取っていた。

「当今天下大乱、雅道陵遲(がどうりょうち)。善人少くして悪人多し。今、十を抜きて五を失ふとも、猶(なお)その半を得て、世教(せきょう)を崇め、志ある者をして自ら励ましむるに足る。」

——『三国志』巻三十七〈龐統伝〉

彼は、乱世においては「才」を優先し、多少の欠点は目をつぶるべきだと考えていた。彭羕(ほうよう)を法正・龐統が共に推薦したのも、この思想に基づくものである。

6. 「王連は流俗にして、苟に掊克を為し、百姓を疲弊せしめ…」

王連は司塩校尉(しえんこうい)として、塩鉄専売を統括していた。これは戦費調達の要職である。

劉備が益州を平定した建安十九年(214年)以降、連年の戦役により財政は逼迫し、劉巴(りゅうは)の建議により「直百銭(ちょくひゃくせん)」を発行して民財を吸い上げた。

「鑄直百銭、平諸物価、令吏得官市。」

——『三国志』巻三十九〈劉巴伝』

このような経済政策の下で、王連が塩鉄で「掊克(重税)」を行ったことは容易に推察される。廖立の批判は、王連個人への非難というより、蜀漢全体の「窮兵黷武(きゅうへいとくぶ)」に対する痛烈な反省である。

結論:廖立は完璧か?

否。諸葛亮は廖立を次のように評している:

「立は先帝に奉じて忠孝の心なし。長沙を守れば門を開きて敵に就き、巴郡を領すれば闇昧(あんまい)にして闟茸(とうじょう)其の事に従ふ。大将軍に随えば誹謗(ひぼう)し、梓宮(しきゅう)に侍れば刃を挟みて人頭を断つ。」

——『三国志』巻四十〈廖立伝〉

これらの非行もまた、事実であろう。

しかし、だからといって廖立の蜀漢に対する批判がすべて虚偽であるとは限らない。彼の発言は、確かに個人的怨嗟を含んでいるが、同時に史実に基づいた鋭い洞察でもある。

廖立と諸葛亮——二人の視点は、同一の歴史を異なる角度から照らす二つの鏡である。

批判のある蜀漢こそ、真に「生きた」蜀漢である。
もし劉備・諸葛亮が「至高・至善・至美」の神格的存在であるならば、それはむしろ虚構に近い。


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