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劉備はなぜ益州を取った後に戦略をミスしたのか?荊州を失ったのは『隆中対』の失敗か?

劉備が益州を手に入れた後の戦略が混乱していたことは確かであるが、これは決して『隆中対』(諸葛亮の戦略構想)に起因するものではない。むしろ、劉璋を滅ぼした直後の劉備がまず取るべき選択肢は、勢いに乗じて漢中を攻略し、益州全域を完全に掌握することであった。なぜなら、漢中は「益州の門戸」(『華陽国志』)と称される要衝であり。

龍の歩み龍の歩み

劉備が益州を手に入れた後の戦略が混乱していたことは確かであるが、これは決して『隆中対』(諸葛亮の戦略構想)に起因するものではない。むしろ、劉璋を滅ぼした直後の劉備がまず取るべき選択肢は、勢いに乗じて漢中を攻略し、益州全域を完全に掌握することであった。なぜなら、漢中は「益州の門戸」(『華陽国志』)と称される要衝であり、これを手中に収めなければ益州の防衛は成り立たないからである。

一方、孫権との関係については、実際には外交的手段で解決する余地があった。孫権は当初、武力行使を意図しておらず、まず諸葛瑾を使者として劉備のもとに派遣し、荊州返還を求めていたのである。

『三国志・蜀書・先主伝』:「二十年、孫権以て先主已に益州を得たりとし、使を遣わして荊州を得んと欲す。先主曰く、『涼州を得ば、当に荊州を以て汝に与えん』と。」

この発言は、現代の感覚で言えば「涼州を取ったら返すよ」という「延期返済」に等しい。借金経験者なら誰もが知る通り、「分割返済」ならまだ交渉の余地があるが、「延期返済」は実質的に踏み倒しの前触れである。劉備のこの対応は、孫権を「カモ」(甘い相手)と見なした無謀な判断だった。

実際、荊州全土を孫権に譲渡することは不可能に近かったが、一部の郡(例えば長沙・桂陽など)を譲ることで妥協点を見出す余地は十分にあった。孫権も本気で荊州全域を要求していたわけではなく、交渉次第では共存の道も開けていたはずである。

しかし劉備は交渉を拒み、結果として関羽が単独で荊州を守備することになった。果たして関羽は荊州を独力で守り抜くことができただろうか?答えは否である。

呂蒙が容易に三郡(長沙・桂陽・零陵)を奪取した事実がそれを物語っている。その後、劉備自ら五万の兵を率いて馳せ参じてようやく局面を安定させたが、それは「維持」にすぎず、戦闘に至れば勝敗は不確実だった。

さらに深刻だったのは、劉備が荊州に向かった隙に益州の統治が不安定になったことである。曹操が漢中の張魯を攻めていただけなのに、劉備は慌てて益州に引き返さざるを得なかった。まるで「往復運動」(折り返し走)を強いられたかのようである。

このとき劉備は幸運だった。孫権が一歩引いてくれたからこそ、湘水を境に和議が成立した。実際、三郡はすでに呂蒙の手に落ち、曹操が漢中を攻めて益州本拠を脅かす中、もし全面戦争に突入していれば、劉備が勝利してもせいぜい三郡の奪回にとどまり、その間にまだ統合が不十分な益州が崩壊するリスクすらあった。

一方で、孫権もまた「善人」ではなかった。彼は曹操と劉備が激突する隙を狙い、自らは淮南(曹操領)を奪取しようとしていた。しかし、劉備が益州に帰還後、張郃を撃退して巴蜀を安定させたにもかかわらず、すぐには漢中攻撃に移らず、成都で内政に専念したため、孫権の思惑は外れた。

『三国志・先主伝』:「十九年夏、雒城破れて、成都を数十日囲む。璋、出でて降る……二十三年、先主、諸将を率いて漢中に進兵す。将軍呉蘭・雷銅等を遣わして武都に入らしむ。皆、曹公軍に没さる。先主、陽平関に次ぎ、淵・郃等と相拒す。」

歴史と『三国志演義』の最大の違いは、劉備が益州を平定してから漢中攻略までほぼ四年間も空白期間があったことである。さらに驚くべきは、曹操が漢中を占領した後、益州への進撃をやめ、夏侯淵を残して自らは鄴城に帰り、魏王に即位したことである。

『三国志・武帝紀』:「十二月、公(曹操)、南鄭より還り、夏侯淵を留めて漢中に屯す。二十一年春二月、公、鄴に還る……三月壬寅、公、籍田を親耕す。夏五月、天子、公の爵を進めて魏王とす……二十二年春正月、王(曹操)、軍を居巣に置く。二月、進軍して江西郝渓に屯す。権、濡須口に城を築いて拒守す。遂にこれを逼攻す。権、退走す。」

この展開に孫権は完全に翻弄された。「結局、抗戦の最前線に立つのは自分か」と悟り、魯粛の「連劉抗曹」路線を捨て、呂蒙の「荊州奪取」戦略へと転換する。

この三郡奪取事件は、後に「白衣渡江」(呂蒙の荊州奇襲)の予行演習とも言える。東呉はこの経験から「先礼後兵」(まず交渉、次に武力)は無駄であると総括し、「機を観て一挙に奇襲する」ことが最も効果的だと判断した。

さらに重要なのは、蜀漢内部の抵抗意志の欠如が露呈されたことである。三郡はほとんど無抵抗で陥落した。もし荊州が曹魏の淮南のように精鋭が守り、民心が固まっていれば、孫権も手を出せなかっただろう。だが実際には、関羽の統治下で荊州は「篩(ふるい)のように内部が漏れていた」状態だった。

乱世においては、「弱きは罪なり」。三歳児が金の塊を抱えて市中に現れれば、誰もが悪魔と化す——それが乱世の法則である。

恐るべきは、東呉がこの失敗・成功を組織的に総括したのに対し、劉備側は一切の反省がなかったことである。これは『隆中対』の失敗ではなく、劉備自身の戦略的無思慮に起因する。

関羽は江陵城の修築や烽火台の設置を行ったが、前回の三郡喪失は「城が弱かった」からではない。人心が離れていたからである。関羽には人心掌握の施策が皆無で、「頭痛を治すために足を治療する」ような本末転倒の対応に終始した。

蜀漢の益州取得後の戦略は、全体として極めて問題があった。廖立(りょうりつ)は「三郡を争うべきではなかった」と正しく指摘しているが、もう一つ見落とされているのは、劉備政権の戦略的「揺れ」——すなわち「保守」と「急進」の間で一貫性を欠いていた点である。

劉璋を滅ぼした直後は、本来なら積極的に漢中を狙うべきだった。ところが、劉備は突然「内政優先」に転じ、孫権との三郡紛争が収束した後も、曹操と孫権が第二次濡須口の戦いで激突する絶好の機会を逃してしまった。曹操が孫権と戦っている間に漢中を取れば、最小のコストで最大の成果が得られたはずである。

ところが劉備はその機を逸し、曹操が戦線を落ち着かせた後にようやく漢中攻撃を開始した。その結果、漢中を得ても「地を得て民を得ず」(『三国志』裴松之注引『魏略』)、益州は疲弊し尽くした。

本来ならこの時点で休養・内政に徹すべきところ、今度は関羽が突如として「襄樊攻撃」という極度の急進策を採用。結果、後方を無防備にしたまま呂蒙の奇襲を受け、荊州を失うという最悪の結末を迎えた。

さらには、襄樊戦後、荊州喪失・孟達の反乱という危機的状況下で、東三郡(上庸・房陵・西城)の扱いすら曖昧だった。放棄するなら劉封を速やかに撤退させるべきだったし、維持するなら増援を送るべきだった。しかし劉備は何の対応もせず、東三郡も失い、兵を損ねるという二重の失敗を犯した。

結論として、劉備は確かに乱世の英雄であり、人望・武勇・政治力はあった。しかし、荊州と益州という二大州を跨ぐ広大な領土を統合・運用する戦略的資質は、明らかに不足していたのである。


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