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諸葛亮の北伐はなぜ失敗したのか?蜀は魏より弱かったのか?

諸葛亮の見地に立てば、北伐は決して「為す術なし」というものではなかった。かつて劉備が新野にいた頃、その兵力はわずか数千にすぎず、麾下の将軍といえば関羽・張飛・趙雲の三人に過ぎず、謀士も徐庶一人を除けば、特筆すべき人物はいなかった。ただ、その者たちは忠誠心に富んでいただけであった。『三国志・先主伝』には「先主は新野に在りし頃、兵数千、将は関・張のみ、謀臣は徐庶一人ありき」と記されている。

龍の歩み龍の歩み

諸葛亮の見地に立てば、北伐は決して「為す術なし」というものではなかった。かつて劉備が新野にいた頃、その兵力はわずか数千にすぎず、麾下の将軍といえば関羽・張飛・趙雲の三人に過ぎず、謀士も徐庶一人を除けば、特筆すべき人物はいなかった。ただ、その者たちは忠誠心に富んでいただけであった。『三国志・先主伝』には「先主は新野に在りし頃、兵数千、将は関・張のみ、謀臣は徐庶一人ありき」と記されている。

しかしその後わずか十年足らずのうちに、劉備は荊州の半ばを掌握し、ついには益州・漢中まで手中に収め、さらには漢中の戦いにおいて曹操を正面から打ち破ったのである。『三国志・先主伝』に曰く:「(建安)二十四年、先主は曹操を漢中に破り、遂に漢中王を称す」。この一連の展開は、実は諸葛亮が隆中の草廬にあって既に推演していた通りの筋書きであった。

『三国志・諸葛亮伝』に載る「隆中対」にはこうある:

「荊州は北に漢・沔に据わり、利を尽くして南海に通じ、東は呉・会に連なり、西は巴・蜀に通ず。此の用武の国なり。……益州は沃野千里、天府の土なり。……若し跨りて有せば、天下を成すの資なり。」

このように、諸葛亮の戦略構想はすでに隆中対の時点で明確に描かれていたのである。

諸葛亮が北伐を開始した際には、既に益州・漢中という堅固な根拠地を有し、南中も平定され安定していた。『三国志・諸葛亮伝』には「南中既に平らかになり、兵糧も足りたり」とあり、内政は整い、外征の基盤は整っていた。この状況下で、時間をかければ曹魏を「蚕食鯨呑(さんしょくげいどん)」することも決して不可能ではなかった。

諸葛亮の戦略はまず隴右(りょうう)を奪取することにあった。その理由は二つある。第一に、隴右は良馬の産地であり、騎兵の編成が可能になること。第二に、関中への進攻拠点として極めて有力な位置を占めることである。もし隴右を掌握すれば、関中の攻略は時間の問題となる。そして一旦関中を手中に収めれば、諸葛亮の統率力と政治力の前に、誰がそれを阻むことができようか。ただし、唯一の例外は「天命」——すなわち諸葛亮自身の寿命であった。

実際、彼が北伐を成し遂げられなかった最大の要因は、まさに「天が彼を早々と召し去った」ことにある。司馬懿は諸葛亮より二歳年長であった。もし諸葛亮にさらに十年の命が与えられていたなら、司馬懿がそれまで生き延びられたかどうかは極めて不確かな話である。

諸葛亮の病没については、従来「食少事煩(しょくしょうじはん)」——すなわち食事も少なく、仕事に追われていたため——と説明されることが多い。これは司馬懿が自軍の将兵を宥めるために述べた言葉であり(『晋書・宣帝紀』)、必ずしも病の真因を示すものではない。むしろ、諸葛亮の病は気候の変化によるものと考えるのが妥当である。

諸葛亮は幼少より琅琊郡(現在の山東省)、その後は襄陽、成都、漢中など、いずれも温暖湿潤な南方で過ごしてきた。しかし北伐のため関中に赴くと、そこは秦嶺の北側——天然の気候バリアを失い、乾燥かつ陰冷な環境となる。短期間であれば耐えられるが、長期滞在すれば健康を損なうのはむしろ自然の成り行きである。過労が免疫力を低下させ、それが病を誘発した可能性が高い。したがって、「食少事煩」はあくまで表向きの理由にすぎず、実際には環境適応不能による病が致命傷となったのであろう。

また、しばしば蜀漢の人口が魏に比べ圧倒的に劣っていたことが「北伐失敗の理由」とされるが、国力の強弱は単に人口の多寡に依るのではない。むしろ、その内部構造の優劣が決定的である。魏は人口こそ呉・蜀の合計を上回っていたが、内部には深刻な構造的矛盾を抱えていた。淮南三叛(かなんさんはん)をはじめとする内乱が頻発し、対外的な軍事行動の効率は著しく低下していた。『資治通鑑』には「魏、内乱頻りにして、外征に力を尽くす能わず」とある。

一方、蜀漢は建国以来、政治・軍事ともに驚くほど安定していた。内紛がなく、資源を対外政策に集中できたことが、連年の北伐を可能にしたのである。さらに蜀は手工業を積極的に発展させ、蜀錦(しょっきん)などの高級工芸品を他国に輸出し、莫大な財政収入を得ていた。『三国志・諸葛亮伝』裴松之注引『襄陽記』には「蜀錦は天下に名高く、魏・呉もこれを慕って購う」と記されており、これが民衆の疲弊を防ぐ財政的基盤となっていた。

ゆえに歴史を評価するにあたっては、結果のみを以て成否を論じるべきではない。むしろ、当時の状況・資源・戦略的選択肢を精査し、その中でどれだけ合理的な判断がなされたかを問うべきである。諸葛亮の北伐は、決して「無謀」ではなかった。それは、天命と環境に阻まれた、惜しみても余りある戦略的挑戦だったのである。


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