諸葛亮はなぜ何度も北伐したのか?諸葛亮の北伐は本当に無謀だったのか?
諸葛亮が魏に対して行った数度の北伐は、いずれもその背景や状況が異なっていた。特に第一次北伐(建興六年、西暦228年)の際には、彼は魏の軍事力を十分に把握しておらず、楽観的な見通しを抱いていた。このことは、彼が劉禅に上奏した『出師表』にも明瞭に現れている。「今南方已定,兵甲已足,当奨率三軍,北定中原,庶竭駑鈍,攘除姦凶,興復漢室,還於旧都。」
諸葛亮が魏に対して行った数度の北伐は、いずれもその背景や状況が異なっていた。特に第一次北伐(建興六年、西暦228年)の際には、彼は魏の軍事力を十分に把握しておらず、楽観的な見通しを抱いていた。このことは、彼が劉禅に上奏した『出師表』にも明瞭に現れている。
「今南方已定,兵甲已足,当奨率三軍,北定中原,庶竭駑鈍,攘除姦凶,興復漢室,還於旧都。」
(『三国志・蜀書・諸葛亮伝』)
しかし、街亭の敗北を経て、諸葛亮は魏の「兵精将勇」(兵は精鋭にして将は勇敢なり)なる実態を痛感し、北伐が極めて困難な事業であることを認識するに至った。
にもかかわらず、諸葛亮は「苟且(こうしょ)偏安」——一時しのぎの安逸に甘んじるような姿勢を断固として拒否した。彼は『後出師表』において次のように述べている。
「然(しか)らずんば、賊を伐たざれば、王業も亦亡ぶ。唯(ただ)坐して亡ぶを待つに如かず、孰(いず)れか伐つに如かんや?」
(『三国志』裴松之注引『漢晋春秋』)
この一文は、諸葛亮が北伐を繰り返した真の意図が「攻めを以て守りと為す」(攻を以て守と為す)という戦略にあったことを明確に示している。換言すれば、「攻撃によって自らを全うすることができ、攻め得ざれば、自保すらも困難である」という認識に基づいていたのである。
蜀出身の良史・陳寿は、その著『三国志』において、諸葛亮のこの戦略的意図を極めて鋭く見抜いている。
「当此之時、亮之素志、進欲龍驤虎視、包挾四海、退欲跨陵辺疆、震盪宇内。」
(『三国志・蜀書・諸葛亮伝』)
さらに陳寿は続ける。
「(亮)自ら以(おも)う、其の身なき日あらば、則ち中原を蹈(ふ)み、上国(魏)と抗(あらそ)う者なしと。是以(よって)、用兵を戢(や)めず、屡(しばしば)其の武を耀(ほこ)る。」
(同上)
すなわち、諸葛亮は自らの存命中に魏に軍を向け、蜀漢の存在感と戦闘力を示すことによって、国家の存立を図ろうとしたのである。これはまさに「攻めを以て守りと為す」の実践であった。
この点について、明末の思想家・王夫之(おう ふし)は『読通鑑論』において次のように評している。
「孔明、師を出して北伐す、攻なり。然れども特(ただ)守らんが為なり。」
(王夫之『読通鑑論』)
「以攻為守と為せば、則ち蜀は固くして存す可く、時に待って進むこと能う。公(孔明)の定算、此(ここ)に在り。」
王夫之のこの論断は、史実に極めて近いものといえる。もちろん、諸葛亮が「興復漢室、還於旧都」という大義を完全に放棄したわけではない。万一、魏に隙が生じ、機が熟したならば、彼は全力を挙げてその大業を成し遂げようとしたであろう。しかし、現実的な戦略の基盤は、あくまで「攻めを以て守りと為す」に置かれていたのである。