諸葛亮の北伐は本当に「無謀」だったのか?「以攻為守」とは何か?
中国の歴史には一つの顕著な特徴がある。すなわち、北方を巡る覇権争いには、原則として無限の可能性が内在しているということである。近年、「南北の実力差」を論じる際に、しばしば女真や清朝の例が持ち出される。この見解が全く根拠がないとは言えないが、しかし、歴史を俯瞰すれば、南方を拠点として中国を統一した例は、ほぼ劉邦と朱元璋の二例に限られる。
中国の歴史には一つの顕著な特徴がある。すなわち、北方を巡る覇権争いには、原則として無限の可能性が内在しているということである。近年、「南北の実力差」を論じる際に、しばしば女真や清朝の例が持ち出される。この見解が全く根拠がないとは言えないが、しかし、歴史を俯瞰すれば、南方を拠点として中国を統一した例は、ほぼ劉邦と朱元璋の二例に限られる。
項羽は連合軍を率いて秦を滅ぼしたが、その後も依然として諸侯を封建し、統一国家を樹立しなかった。また、朱元璋が北伐を成功させた際も、元朝内部は深刻な内紛に陥っていた。すなわち、北方が比較的統一された政治的・軍事的共同体として機能している状況下で、南方勢力が一挙に天下を制した事例は、中国数千年の歴史を通じて存在しないのである。
このような歴史的事実を踏まえれば、南方に名将が少なかったから成功しなかった、あるいは南方が決定的な勝利(赤壁・石亭・淝水の戦い、劉裕の北伐など)を挙げられなかったから統一できなかった、といった単純な帰結は妥当ではない。むしろ、北方の地政学的優位性と政治的凝集力の高さが、長期的な歴史的傾向として作用してきたと見るべきであろう。
「以攻為守」論の再検討
近年、もう一つ理解に苦しむ傾向がある。それは、「以攻為守」という戦略思想が、ネット上の「蜀ファン」の空想的教義のように扱われることである。だが、この言葉は現代のネット民や易中天氏の発明ではなく、明末清初の思想家・王夫之(おう ふし)が『読通鑑論』において明確に述べたものである。
「蜀の弱きを以て、魏の強きを制せんと欲すれば、唯、攻むるを以て守るのみ。」(『読通鑑論』巻十)
この論理を否定するならば、諸葛亮自身が『出師表』で述べた以下の言葉も否定することになるだろう。
「今天下三分、益州疲弊、此誠危急存亡之秋也。」(『三国志・蜀書・諸葛亮伝』)
諸葛亮は、蜀漢が弱小国であるがゆえに、積極的に攻勢に出なければ自滅は必至であると認識していた。これは単なる悲壮な覚悟ではなく、冷静な戦略判断に基づくものである。
「不可為」と「必為」の区別
ここで一つ重要な論理的整理が必要である。「以攻為守」や「危急存亡」という認識は、「不可為(為すすべなし)」と同義ではない。近年、「為すすべなし」という表現が、テレビドラマ『軍師聯盟』(司馬懿役:呉秀波)の台詞として流行したが、あれはあくまでフィクションであり、歴史的評価の根拠にはなり得ない。
諸葛亮の北伐の最終目標は確かに「興復漢室、還於旧都」であったが、それは必ずしも「一挙に魏を滅ぼさねば成功ではない」という意味ではない。例えば、雍州・涼州、あるいは隴右地方を奪取できたとすれば、それだけで蜀漢の国力を増強し、魏の戦略的優位を削ぐことが可能であった。さらに、隴右は良馬の産地であり、騎兵戦力の獲得という点でも極めて重要であった。
実際、諸葛亮だけでなく、その後継者である姜維も、魏軍を大敗させ、隴右放棄を迫る寸前まで追い詰めたことがある。『三国志』裴松之注引『漢晋春秋』によれば:
「艾議棄涼州、泰固執不從。」(鄧艾は涼州放棄を提案したが、陳泰が強く反対して実現しなかった)
このように、蜀呉連合の戦略的ポテンシャルを考えれば、北伐は決して「無謀」ではなかった。むしろ、魏の人口・国力が着実に拡大する中(西晋統一時の人口は1000万戸以上に達し、漢代全盛期の北方人口4000万を想起せざるを得ない)、自らの戦略的機動性を放棄し、静観を貫くことこそ、最大の戦略的誤りであったと言える。
結語:「知其不可而為之」か、「知其必為而為之」か
従って、諸葛亮の北伐を「知其不可而為之(為すすべなきを知りつつ為す)」と評するのは、むしろ彼の戦略的洞察を矮小化するものである。むしろ、彼は「知其必為而為之(為さねばならぬことを知りつつ為す)」という、より積極的かつ現実的な判断の上に行動していたのである。