諸葛亮はなぜ蜀漢の必勝を確信していたのか?北伐に失敗してもなお楽観的だった?
劉備が崩御した直後、魏の文帝曹丕は蜀漢に対し「平和裏に易姓革命を受け入れよ」と勧告を試みた。その際、魏の重臣たちが次々と諸葛亮宛てに書簡を送り、天命と人事を説いて蜀漢の臣従を促した。「是歳、魏司徒華歆・司空王朗・尚書令陳群・太史令許芝・謁者僕射諸葛璋、各有書与亮、天命人事を陳べ、国を挙げて藩に称せしめんと欲す。」
劉備が崩御した直後、魏の文帝曹丕は蜀漢に対し「平和裏に易姓革命を受け入れよ」と勧告を試みた。その際、魏の重臣たちが次々と諸葛亮宛てに書簡を送り、天命と人事を説いて蜀漢の臣従を促した。
「是歳、魏司徒華歆・司空王朗・尚書令陳群・太史令許芝・謁者僕射諸葛璋、各有書与亮、天命人事を陳べ、国を挙げて藩に称せしめんと欲す。」
——『三国志』裴松之注引『諸葛亮集』
華歆・王朗・陳群は当時の魏政権の中核をなす人物であり、許芝はかつて曹丕の即位に際し「天命」を宣揚した人物である。今回の任務は、明らかに蜀漢政権の正統性を攻撃するものであった。諸葛璋は琅琊諸葛氏の一族と推測され、この勧降団は「地位・専門性・血縁的説得力」を兼ね備えた、極めて立体的な布陣であった。
さらに曹丕は、虎牙将軍・鮮于輔を蜀漢に直接派遣して説得を試みている。のちに後主劉禅が降伏文書でこの一件を回想している。
「毎惟黄初中、文皇帝命虎牙将軍鮮于輔、温密之詔を宣べ、三好之恩を申し、門戸を開示し、大義炳然たり。」
——『三国志・後主伝』裴注引『漢晋春秋』
当時の蜀漢は、軍隊を建制単位で喪失し、人材も世代的に失い、半数の支配地域が反乱に陥っていた。まさに諸葛亮が「此れ誠に危急存亡の秋なり」(『出師表』)と嘆いた状況である。曹丕がこのような組織的勧降を試みたことは、彼が蜀漢の崩壊を現実的に予期していたことを示している。
『正議』:正義こそが勝利の鍵
しかし諸葛亮は返書をせず、代わりに一篇の論説文『正議』を著した。おそらくは鮮于輔を通じて魏側にも届けられたものと思われる。その全文は以下のとおりである。
「昔、項羽は徳に由らずして起つ。雖い華夏に処り、帝者之势を秉るも、卒に湯鑊に就き、後世の永き戒と為る。魏は鑑を審かにせず、今まさにこれに次ぐ。身を免るるを幸とし、戒は子孫に在り。而るに爾ら二三子は、各おの耆艾の歯を以て、偽りの指を承け書を進む。是れ崇・竦が王莽の功を称うるが如きか。亦た元禍に逼られて苟も免れんとする者か?
昔、世祖(光武帝)は旧基に跡を創り、羸卒数千を奮い、昆陽の郊において王莽の強旅四十余万を摧く。道に拠りて淫を討つは、衆寡に在らず。
及び孟徳(曹操)に至り、其の詭譎の力を以て、数十万の師を挙げ、陽平において張郃を救う。然れども勢窮まり慮悔い、僅かに自ら脱するのみ。其の鋒鋭の衆を辱め、遂に漢中之地を喪う。神器は妄りに獲るべきに非ざることを深く知り、旋還せんとすれども未だ至らざる間に、感毒して死す。
子桓(曹丕)は淫逸にして、これに篡を継ぐ。
縦使爾ら二三子、蘇・張の詭靡の説を逞しくし、兜滔天の辞を奉進すとも、唐帝を誣毀し、禹・稷を諷解せんと欲すは、徒に文藻を喪い、翰墨を煩わすのみ。是れ大人君子の為さざる所なり。
また『軍誡』に曰く、『万人必死すれば、天下を横行す』と。
昔、軒轅氏は卒数万を整え、四方を制し、海内を定む。況や数十万の衆を以て、正道に拠りて有罪に臨む者、干擬すべからざるか?」
——『三国志』裴注引『諸葛亮集』
この『正議』の核心思想は明確である:**勝敗は兵力の多寡ではなく、正義の有無にかかっている**。
「正議」とは、文字通り「正道に立つ者が、罪ある者を諭す議論」である。諸葛亮はここで、高祖(劉邦)と光武帝がいずれも寡兵で強敵を破ったことを挙げ、「汝ら魏は兵多ければ勝てるのか?」と問い質す。曹操が数十万の大軍を率いても漢中を失い、「神器(天命)は妄りに得られぬ」と悟って毒に倒れたことを指摘し、曹丕の「淫逸・簒奪」を厳しく非難する。さらに、王莽を称賛した甄豊・甄尋(崇・竦)の末路を引き合いに出し、「汝らも同じ運命をたどるのか?」と警告する。そして最後に、『軍誡』の一節「万人必死、横行天下」を引用し、正義に立つ者の無敵を宣言する。
この文章は、魏の君臣への反論であると同時に、**蜀漢内部への鼓舞でもあった**。諸葛亮は、曹魏を「有罪」として断罪し、自らの陣営を「正義の側」と位置づけることで、士気を高めようとしたのである。特に「万人必死、横行天下」という八文字は、彼の**絶対的な勝利確信**を象徴しており、これは単なる悲壮な自己陶酔ではなく、**正統性に基づく冷静な軍事的楽観主義**である。
第一次北伐失敗後も揺るがぬ信念
「それはまだ北伐を経験していないから、天の高さを知らないだけではないか?」という疑問もあるだろう。しかし、第一次北伐で馬謖を斬り、自らも三階級降格した直後、諸葛亮は再び大規模北伐を勧める声にこう答えた。
「亮曰く、『大軍は祁山・箕谷に在り、皆賊よりも多し。然るに賊を破らず、賊に破られたるは、則ち此の病は兵少に在らず、一人に在り。今、兵を減じ将を省み、罰を明にし過ちを思ひ、将来に於いて変通の道を校(かんが)へんと欲す。若し能はざれば、雖い兵多しと雖も何の益かあらん!』」
——『三国志』裴注引『漢晋春秋』
彼は、祁山・箕谷いずれも蜀軍が優勢だったにもかかわらず敗北した原因を「兵力不足」ではなく「自分一人の過ち」にあると認めた。そして、今こそ「兵を精簡し、責任を明確にし、次なる戦略を練るべきだ」と述べた。
さらにこう続けている。
「自今以後、諸有忠慮於国者、但だ吾が闕(とが)を勤攻せば、則ち事は定まり、賊は死し、功は蹺足(きょうそく)して待つべし。」
——「今後、国に忠慮ある者は、私の過ちをどんどん指摘してくれ。そうすれば、天下は定まり、賊は滅び、私はつま先立ちですぐに漢室復興の日を見られるだろう。」
ここには一滴の悲観も見られない。あるのは、自己を省み、改善し、再起を期す積極的な前向きさである。彼は「明知不可為而為之」(成し得ぬと知りつつ為す)の悲劇的英雄ではなく、「明知可為而積極進取之」(成し得ると確信して進む)の戦略家であった。
「遥封」に込められた政治的メッセージ
蜀漢は一州(益州)しか領さなかったが、その政治的視野は常に「天下」を射程に置いていた。その象徴が、主要将軍たちの「侯爵封地」である。
- 馬超は「斄郷侯」。斄郷はどこか?
「右扶風、故秦内史……斄、周の后稷が封ぜしむ。」
馬超は扶風茂陵の人。斄郷はまさにその故郷である。
——『漢書・地理志』 - 張飛は「西郷侯」。一見、漢中の地名と誤解されやすいが、実際は:
「涿郡、高帝置す……西郷、侯国なり。」
涿郡は劉備・張飛の故郷。封地はここにある。
——『漢書・地理志』 - 諸葛亮自らが選んだ「武郷侯」の武郷は?
「琅邪郡、秦置す……武郷、侯国なり。」
諸葛亮は琅邪陽都の人。武郷はその故郷である。彼の遺産が「桑八百株、薄田十五頃」(『三国志』)であったことからも、これは収入を伴わぬ遥封(名目上の封地)であることがわかる。
——『漢書・地理志』 - 諸葛亮没後、姜維は「平襄侯」に封ぜられる。
「天水郡、武帝元鼎三年に置く……明帝、これを漢陽と改む……県十六:平襄……」
姜維は天水冀の人。平襄はその故郷である。
——『漢書・地理志』
この一連の封爵には明確な政治的意図がある:「故郷に凱旋し、封地を食む」=「漢室復興・旧都還幸」。将軍たちが故郷で封邑を受ける日こそ、皇帝が長安・洛陽に還る日である。
さらに注目すべきは、これらの地名がすべて西漢時代の旧称を用いている点である。これは、蜀漢政権が士族門閥政治の魏晋体制を拒否し、西漢のような寒門士人中心の社会秩序の再建を目指していたことを示している。
北伐は「選択」ではなく「宿命」
蜀漢の立国理念は「漢室興復」であり、その実現手段は「北伐」以外にない。したがって、北伐をやめることは、あるいは悲観主義が蔓延することは、国家としての自殺行為に等しい。
諸葛亮は、自らの必勝信念を単に抱くだけでなく、それを蜀漢全体に浸透させることを最重要任務とした。『正議』や『出師表』といった文書を通じて理念を発信するだけでなく、日々、人材の登用と育成に努めた。
彼は部下にこう諭した。
「苟能く元直(徐庶)の十一を慕い、幼宰(董和)の殷勤を效うれば、国に忠ありて、則ち亮の過ちも少なかるべし。」
張裔にはこう書き送っている。
「及其(きゅう)来還、委付大任、同く王室を奨めん。」
蒋琬を絶賛した言葉も有名である。
「公琰(蒋琬)は志忠雅にして、吾と共に王業を賛(たす)くべき者なり。」
また、姜維を捕虜として得た際には、張裔・蒋琬宛てに喜びを綴っている。
「姜伯約(姜維)は軍事に甚だ敏なり。胆義あり、兵意を深く解す。此の人は漢室を心に存し、才兼ねて人を凌ぐ。」
彼らは最終的に北伐を成し遂げられなかった。しかし、その卓越した努力が「勝利の可能性」を維持し続けた。その可能性こそが、諸葛亮没後も蜀漢が30年間存続できた理由であり、逆にその可能性が消滅したとき、蜀漢は静かに幕を閉じたのである。
結び:悲劇の結末、昂揚の過程
結末は確かに悲劇であった。しかし、その過程は一切の諦念を排した、昂揚に満ちた戦いであった。
「若し魏を滅ぼし叡(曹叡)を斬らば、帝は故居に還り、諸子と共に昇らん。十命を受くとも、況や九をや。」
——『三国志』裴注引『漢晋春秋』
ここに「僭越」などあるだろうか?
「仁」を担う者には、その使命を果たす権利と義務がある。ただそれだけである。