夷陵の戦いで劉備は本当に8万人を失ったのか?なぜ劉備は夷陵の戦いで大敗したのか?
この問題を論じるにあたっては、まず総兵力の実態を分析せねばならない。しかし、「八万余人を斬った」という記述は明らかに誇張である。『三国志』巻三十二〈先主伝〉によれば、昭烈帝(劉備)が湘水の盟(建安二十年、215年)を結んだ際、その主力兵力はせいぜい五万に過ぎなかった。その後、荊州喪失(建安二十四年、219年)。
この問題を論じるにあたっては、まず総兵力の実態を分析せねばならない。しかし、「八万余人を斬った」という記述は明らかに誇張である。『三国志』巻三十二〈先主伝〉によれば、昭烈帝(劉備)が湘水の盟(建安二十年、215年)を結んだ際、その主力兵力はせいぜい五万に過ぎなかった。
その後、荊州喪失(建安二十四年、219年)により約三万〜五万の兵力を失い、漢中攻略(建安二十四年)では「男子当戦、女子当兵」(『三国志』巻三十三〈後主伝〉裴松之注引『諸葛亮集』)という極限状態にまで追い込まれ、国力は未だ回復していなかった。
さらに、魏延率いる精鋭の漢中軍団は漢中に駐屯しており、呉懿(呉国舅)がこの戦役に参加した記録は『三国志』にも『資治通鑑』にも見られない。馬超についても、戦場の性質に不適であったか、あるいは既に重病に伏していた可能性が高い(『三国志』巻三十六〈馬超伝〉:「章武二年卒、時年四十七」)。
したがって、夷陵の戦い(章武元年〜二年、221〜222年)における劉備東征軍の兵力が前戦よりも増加したとは到底考え難く、実数は五万〜六万程度であったと推定される。初期投入兵力は四万〜五万、後に武陵蛮(五谿蛮)が約一万余り加勢したと考えられる(ただし、当時の軍制は必ずしも定員満杯とは限らず、実戦兵力は概して少なかった)。
筆者の推定では、総損失は三万〜四万程度であろう。
損失の構成と生存部隊
以下に留意すべき点がある。第一に、趙雲は江州に一万余りの予備隊を有していた(『三国志』巻三十六〈趙雲伝〉裴注引『雲別伝』:「先主東征、雲留江州為後鎮」)。第二に、益州水軍は大きな損害を被らなかった。水軍将領の呉班・陳式はいずれも生存しており、『三国志』巻三十二〈先主伝〉に「先主自猇亭還秭帰、収合離散兵、遂棄船舫、由歩道還魚復」とあるように、船を捨てて陸路で撤退していることからも、水軍の主力は温存されていたと推察される。
また、秭帰・巫県の守備兵の一部も生き残っており、潰走した兵士の多くも後に再編成された。
具体的な損失内訳
損失の内訳は以下の通りである。
- 主力部隊が最初の攻撃を受け、この段階で一万〜二万が討ち取られた。
- 馬鞍山の戦いで再び大敗を喫し、万余りを失った。
- 五谿蛮の援軍約一万はほぼ全滅し、その首領・沙摩柯も戦死した(『三国志』巻五十五〈甘寧伝〉裴注引『江表伝』:「沙摩柯為魏将所斬」)。
また、劉備が江北に配置し、曹丕の南下を警戒させた黄権の部隊は、退路を遮断され、やむなく魏に降伏した。その兵力は五千〜一万と推定され、一万を超えることはなかっただろうが、装備・将校の質は極めて高かった。『三国志』巻四十三〈黄権伝〉には次のように記されている:
「権及領南郡太守史郃等三百一十八人、詣荊州刺史、奉上所仮印綬・棨戟・幢麾・牙門・鼓車。権等詣行在所、帝置酒設楽、引見於承光殿。権・郃等、人人前自陳、帝為論説軍旅成敗去就之分、諸将無不喜悦。賜権金帛・車馬・衣裘・帷帳・妻妾、下及偏裨皆有差。拝権為侍中鎮南将軍、封列侯、即日召使驂乗。及封史郃等四十二人皆為列侯、為将軍郎将百余人。」
この部隊は、もとより荊州奪還後の統治を担う中核人材であったと見られる。
以上を合算すれば、損失総数は三万〜四万に達する。しかもこれらは「四方の精鋭」(『三国志』巻三十九〈董和伝〉裴注引『諸葛亮集』)——すなわち百戦錬磨の老兵であり、蜀漢軍の戦闘力に致命的な打撃を与え、国家の基盤を揺るがす結果となった。
人材喪失の深刻さ
兵力損失にとどまらず、人材の喪失も甚大だった。若手将校多数が戦死し、中堅層が事実上断絶した。とりわけ惜しまれるのは、黄権の魏降伏、馬良の戦死、そして張飛が出陣前に暗殺されたことである(『三国志』巻三十六〈張飛伝〉:「先主伐呉、飛当率兵万人会江州、臨発、為左右所害」)。その他、名のある将校が数十人も戦死している。
もし、これらの精鋭兵士と有能な人材が丞相(諸葛亮)の北伐(建興六年以降、228年〜)まで存命であったなら、天下の情勢は大きく変わっていたかもしれない。しかしながら、歴史に「もし」は存在しないのである。