夷陵の戦いで劉備は本当に5万以下の兵しか持っていなかったのか?
まず認識すべきは、夷陵の戦いが単独の戦闘ではなく、一連の連鎖的軍事行動の帰結であるということである。この戦いにおける「損失」とは、呉軍が斬首した兵数を指すものではなく、劉備が戦争開始時に動員した兵力と、敗走後永安(魚腹)に退却して休戦に至った時点における有生兵力との差異を意味する。
まず認識すべきは、夷陵の戦いが単独の戦闘ではなく、一連の連鎖的軍事行動の帰結であるということである。この戦いにおける「損失」とは、呉軍が斬首した兵数を指すものではなく、劉備が戦争開始時に動員した兵力と、敗走後永安(魚腹)に退却して休戦に至った時点における有生兵力との差異を意味する。この差こそが、蜀漢側の真の損失量である。
兵力に関する再考
「劉備の兵力は五万未満であった」とする説には、まず『湘水対峙』の事例を想起すべきである。当時、南郡はなお劉備の手中にあり、孫権が荊州三郡を奪取した際、劉備は直ちに五万の兵を率いて公安へ向かった。『三国志・先主伝』に曰く:
「先主引兵五万下公安。」(『三国志』巻三十二)
このとき、呉はすでに三郡を併合し、于禁の降卒および関羽敗残兵を吸収し、地の利も完全に掌握していた。このような状況下で、わずか四万の兵で孫権を圧し、割地を強いるなど、到底考え難い。揚州方面における呉の兵力は、曹操との対峙期よりもむしろ増強されていた。曹丕の用兵能力が曹操を上回るとは到底思えず、戦略的博奕には相応の兵力が不可欠である。よって、「劉備の兵力は五万未満」とする説は、史実に照らして信頼しがたい。
実際、孫権が魏に送った上表文(『江表伝』所収)には、
「劉備支党四万余人、巴丘に屯す。」(『江表伝』)
とあり、これはあくまで前軍に過ぎない。その後、劉備は諸将を率いて全面進軍し、中軍を展開して陸遜と全面対峙に及んだ。その兵力はさらに増強され、保守的に見積もっても五万を下らない。これは陸遜が対峙した兵力および「五十餘営」(『三国志・陸遜伝』)という布陣規模とも整合する。
戦闘経過と損失の実態
戦闘の経緯を概観すると、呉軍は火攻と水軍による迂回包囲戦術を用いて、長江以南の蜀軍を大破した。『三国志・陸遜伝』に曰く:
「一火の攻めに、四十餘営を破る。」(『三国志』巻五十八)
この攻撃により、張南・馮習ら前軍将領は戦死し、前軍約四万は指揮系統を失い、ただの潰走兵と化した。潰走兵は戦闘力を失うのみならず、後方の士気を著しく損なう。しかし、劉備は長年の戦場経験を活かし、山上に陣を構えて態勢を立て直そうとした。これは極めて合理的な判断であった。前軍が潰れても中軍が撤退すれば、呉軍の追撃は止められず、さらに江北の部隊は呉水軍により遮断され、連絡も断たれる。そうなると、戦いは完全に敗北となる。
陸遜もまた劉備の意図を察しており、『陸遜伝』に記されるように、
「四面蹙攻し、急戦を利とする。」(『三国志』巻五十八)
と、一刻の猶予も与えず猛攻を加えた。劉備が態勢を立て直す前に決着をつけることが、陸遜の唯一の戦略であった。曹丕がこの膠着状態を察知し、北から出兵する可能性も高かったため、陸遜にとって時間は味方ならず、劉備にとってのみ有利であった。
この状況下、劉備の中軍は驚異的な戦闘力を発揮し、前軍潰滅・士気低迷・兵力劣勢の中でも最後まで奮戦した。しかし、『先主伝』に曰く、
「遂に馬を棄て歩み、魚腹に遁る。」(『三国志』巻三十二)
皇帝が捕虜となる寸前まで追い詰められ、ようやく突囲を果たしたのである。このとき、精鋭の中軍はほぼ全滅した。
その後、呉軍は徹底的に追撃を加え、劉備軍はもはや有効な抵抗を組織できず、単なる潰走となった。呉軍は永安(魚腹)まで追撃し、ようやく停止した。
江北にあった黄権は退路を断たれ、やむなく魏に降伏した。『黄権伝』に曰く:
「道絶え、魏に降る。」(『三国志』巻四十三)
損失の規模とその影響
損失を総括すると以下の通りである。
- 中軍:一万人以上(精鋭主力)
- 黄権の江北軍:魏軍牽制・陸遜対峙任務を負い、これも一万人以上
- 前軍:潰走後、数百里にわたり追撃され、「十に一も存せず」(『先主伝』裴松之注引『漢晋春秋』)は決して誇張ではない。指揮系統が崩壊した状態で、数百里を無事に永安まで到達できた者は、奇跡的であった。
この損失の甚大さは、その後の展開からも裏付けられる。劉備が永安に留まり、成都に帰還しなかったのは、東征軍の残存兵力が呉の再侵攻を防ぐにすら足りなかったためである。まさに国家存亡の瀬戸際であった。
さらに、諸葛亮が南中平定および北伐を実施する際、用いた将領は、新進気鋭の者か、益州に留まっていた老将ばかりであった。夷陵で劉備が率いていた軍団の精鋭は一掃され、『馬謖』のような実戦経験の乏しい人物を重用せざるを得なかった背景もここにある。『三国志・馬良伝』裴注に曰く:
「街亭の敗、謖の過なり。」(『三国志』巻三十九)
夷陵の戦いで戦死・戦没した将帥の数は極めて多く、その多くが『三国志』に列伝されるべき人物であった可能性が高い。将帥の損失がこれほど甚大であるならば、兵卒の損耗はさらに甚だしいことは言うまでもない。
また、南中の反乱という「肘腋の患」(『諸葛亮伝』)に対し、諸葛亮が二年近くも国を閉ざして準備を重ねたことからも、蜀漢の国力・軍力がいかに疲弊していたかが窺える。夷陵の敗北は、蜀漢の国政・軍事に深刻な打撃を与え、南中平定を遅らせただけでなく、北伐の最適機をも逸することとなった。
劉備の精神的打撃
最後に、劉備自身の反応にも注目すべきである。『先主伝』に曰く:
「先主大いに慚恚し、俄かに薨ず。」(『三国志』巻三十二)
劉備は生涯を通じて数度の敗北を経験している。最も惨憺たる際には妻子を失ったこともあったが、いずれも夷陵ほどの精神的打撃は受けていない。これは劉備自身が「生涯最大の汚点」と認識していたに違いない。まさに、彼の軍人生涯において最も惨烈な敗北であった。
結語
夷陵の戦いは、単なる戦術的敗北にとどまらず、蜀漢の国運を左右する戦略的転換点であった。兵力の規模、損失の実態、そしてその後の国家運営への影響を、古籍の記述を基に検証することで、その歴史的重みを再認識することができる。